会員の作文

高野台慕情60あなたを見守る  ―吹田市総合防災センター―

                                         令和6年3月17日掲載

 

               

       江藤憲

   

2024年2月3日()午前10時から、南千里駅傍の吹田市佐竹台1丁目6番3号で、「吹田市総合防災センター」の完成披露式典と内覧会が行われ参列した。

テープカットの後、ズボンは白、ブレザーは真紅、ネクタイは紺色に白い帽子の音楽隊の演奏が始まる。「ホーム・スイート・ホーム(埴生の宿)」「負けないで」の2曲。郷愁の歌と阪神淡路大震災で歌われた曲だ。平成7年1月17日阪神淡路大震災では6433人が犠牲になっている。寒風吹きすさぶ大空に響き渡り、美しい演奏に合わせて、両手を組み、小さく口ずさみながら涙を拭う。

 

10階からの俊敏な救助訓練披露に息を飲んだ。6階に住んでいる私は、目が点になる。

「吹田市総合防災センター」(DRCsuita)は、北消防署、北大阪消防指令センター、高度救助隊等の消防機能、土木部行政機能、教育センター機能を有し、災害時は本市北部の災害活動拠点となる複合施設」と、施設概要にある。文末に総合防災センターの全景写真を掲載する。

撮影は、宮本吹風氏。「吹田自分史の会」会長。私達を見守り、大空に聳え立つ要塞。見事な映像は、自分史とともに後世まで伝えられて行く。

内覧会では、鵜の目鷹の目、メモを欠かさない。吹田市報の記者も来ていた。言葉少なに傍を離れない。記者気取りの私も取材に必死だ。彼は、この記念すべき日を市報にどう書き残すのだろう。

地上10階、地下1階。屋上には、大規模災害時の消防隊員救助活動や移動のためのヘリポートがある。

大阪府からの土地購入代は16億円。総工費は33億469万円。工事には3年を要した。駐輪場、駐車場も完備。2024年4月1日から業務開始だ。

38万人の吹田市民を災害から守り、HUG(はぐ)(抱く)する砦だ。

2024年1月1日、能登半島地震は、年明けから日本列島を揺らした。

阪神淡路大震災は、2018年6月18日午前7時58分、震度5強。当時居住していた高層4階は亀裂が入り現住地に転居することになった。

青天の霹靂、「まさか」は、再びやって来た。月日は百代(はくたい)過客(かかく)にして、過去は過酷で尊い教師だ。

 

軌を一にして2月7日、朝日新聞は、戦慄するような吉村洋文(よしむらひろふみ)大阪府知事のアンケートを発表した。曰く「能登半島と同じ問題は大阪府でも可能性がある」

能登半島地震の発生から1か月に合わせて朝日新聞が実施した全国知事アンケート結果だ。

吉村洋文知事は、能登地震と同じ震度7、同規模の地震が府内で起きた場合、道路寸断などで物資輸送や救助作業が妨げられる可能性があると回答した。

府は地震の被害想定や防災、減災対策の見直しを進めて行くとしている。

「水が無い、電気が無い、燃料が無い、寝る所が無い」

痛ましい多くの犠牲者と、甚大な損害を(もたら)した能登半島地震、同じことが、何時、起こるかも知れない。30年以内に70から80%の確率で発生するとされる南海トラフ地震。

日本列島は巨大地震の活動期に入っていると言う。大地震は必ず来る。その被害は想像を超えるものになるという。

鮮明な記憶の中で後世に残るこの日を拙文に残したい。私達を見守り、災害時にはHUG(はぐ)する「吹田市総合防災センター」。

2024年2月3日の記念すべき式典に参列させていただいた一人として感謝の気持ちを捧げたい。

 

おていさん

                                 令和6年3月掲載

  

                                  出久野 坊

 

一昔前、カンテキとか七輪とか呼ばれた50センチほどの高さの素焼きのコンロ。その上に載せられたアルミ製のヤカンからは湯気が勢いよく上がっている。母は両手に持った太めに毛糸をゆっくりと湯気に当てながら右側へ繰り出していく。ねじれていた毛糸が湯気を通るとほぼ直線になって折り重なる。母の左手の下には、父が戦前(1930年頃)の海外留学の際に買って来た厚手の毛糸のセータ―があった。コンロの右側のまっすぐな毛糸が増えるに従い、セーターは形を失っていった。昭和17年、私が5歳の頃である。既に日本の衣料品は不足気味で、毛糸などは市販されていないと母が言っていた。

 母はそれから何日も毛糸の編み物に熱中していた。朝から夜遅くまで。初めはパンツだと私はおもった。それが日を追うにしたがって長くなり、父が穿いているズボン下、パッチの形になった。

 早春のある朝、母は私を連れ自宅近くの当時の国鉄須磨駅へ向った。祖父の住む京都の宇治へ行くのだと言った。私の父方の両親は私が生まれる前に亡くなっていたので、祖父母は母方だけであった。

どう乗り継いだかもう記憶にないが、気がついたとき私と母は宇治川近くの高台にある平屋建ての広い八畳ほどもある座敷にいた。部屋の中央に敷かれた布団に横たわっている祖父久兵衛さんの傍に坐っていた。祖父は私の顔を見るなり「とよちゃん、大きくなったなあ」とほほ笑んでくれた。私にはそれまで祖父に会った記憶はなかった。

母は上布団をめくり、編んできたパッチを祖父の下半身にあてがい、満足そうに微笑んでいた。寸法があったらしい。あけ放たれた戸外からは川音が響いていたのを忘れない。

明治8(1875)年生れの祖父は滋賀県五個荘(ごかしょう)出身で京都に出て来て呉服屋を営み、一代で産を成したという。釣りが好きで川の辺に別荘を立て、店が不況で閉店した後は釣り三昧の日々をおくった。祖父は私達親子が訪れたその年の暮れに亡くなった。糖尿病であった。

私の母は祖父の妻、ていさんが産んだ八人の子供の長女であった。勝ち気で聡明であった母を祖父はこよなく可愛がったようだ。母は当時としては優秀であったらしく京都府立の女子高等学校を卒業していた。声も良く声楽を学びNHKで独唱したというのが自慢であった。祖父と母は固い親子の絆で結ばれていた。だから、祖父の病を聞きすぐにパッチを編み出したのだ

 祖母のおていさんはその後しばらく宇治の家で三男夫婦と生活していたが、やはり私の母との相性が良いらしく、戦火で罹災し京都に転宅していた私の実家へやって来た。おていさんは明治15(1883)年生まれ、京都に来たのは80歳頃であったのだろう。8人の子供を産んとは思えないほどの元気で矍鑠としていた。すらりと背が高く色白で若い頃はさぞやと思わせる昔風の美人であった。私が結婚すると、父は実家から100メートルほども離れた処の木造2階建てのアパートの一室を借りてくれた。電話はなかったが実家が近かったので不自由はない。程なく私の長男、一郎が生まれた。おていさんは曾孫の一郎をこよなく可愛がってくれた。木造アパートの鉄板張りの階段を下駄ばきで一段ずつ足をそろえてトーントーンと足音を響かせながら、毎日のようにやって来てこぼれんばかりの笑顔で一郎をあやしてくれた。私達夫婦は「おばあさん」と言うべきところ、敬愛を込めて「おていさん」と呼んでいた。

 妻は「おていさん」の足音を聞くと授乳や水仕事を止め玄関にでて祖母のノックを待った。私も祖母の息子に対するひたむきな愛情に感謝して、祖母が大好きな京都南座での歌舞伎の一等席をいつも買い求め、取り立ての免許で送迎したものだ。当時の私の勤務地が京都だったから出来たのだ。そんなある日の夕方、勤務先に母からの電話があった。

「あんた、帰りしなに丸太町の赤十字病院に寄って欲しいのんや。おばあちゃんが……」

と言って電話が切れた。私は定刻の五時に手早く仕事を終え病院へ向かった。そこですでに来ていた親族の一人から祖母の逝去を聞かされた。溢れ出す涙に耐え、車を運転して自宅へ戻り、アパートのドアを開けるなり妻が言った。

「おていさん、亡くならはったんやろ」

電話もないのに、何故?と私。

「今さっき、来はった」

と言う。 妻はいつもの階段の足音を聞きドアの前に立ったが、気配が無いのでドアを開けると見慣れたおていさんの後ろ姿が、ふと見えた気がした、と呟いた。

「きっと、サヨナラを言いに来てくれはったんや」

と私が言い、妻ともども号泣した。

 

 今年米寿を迎える私。あと幾たび春を迎え送ることが出来るのか。ふと思う日々である。

 

就寝前には胸の上に手を合わせ、ご先祖様と両親、縁あって子供を産んでくれた妻に心からの感謝の気持ちを捧げている。

 

令和の時代に

                                  令和6年2月掲載

 

                                ひろせ まさひと

 

 いまの私は文章を作成する手が進まなくなった。吹田自分史の会の文集、第十二集の掲載文として、年号が新たになった4年前に提出した未掲載の文章である。

 昭和11年生まれの私には、平成30年を経て「令和」の御代と3世代を過ごすことになる。

 自分の生涯を回想して大きく心に残ることの一つは小学校3年生の時に体験した、先の太平洋戦争敗戦の記憶であろう。ただならぬ時世を感じながらも幸いと云うか、あの時代に起きた負の現実の記憶がかなり鮮明に残る。

22年ほど前、我ら金池國民小学校3年同級生の、還暦を祝して別府で祝賀懇親会が開かれたその席で、当時の元教師から敗戦の8月15日を挟んだ手書きの日記帳が参加者に配られた。師は話す。

「淡々と書いてきた日々の出来事、想い願いをいつの日か披露したいと思っていたが、年号の変わる今年を機に教師の手記として原文のままを冊子とした」

 師の手記の表題は「遥かなり五十年 その時わたしは」とある。全文ではないが昭和20年7月17日の空襲、8月15、16、17日の悲惨な情況を抜粋して紹介する。私ではなく恩師の自分史である。

 

 7月17日(火)曇

 「敵機は大分市付近を攻撃中なり」とラジオ放送! いよいよ来た。7月に入って今夜か、今夜かと思われた焼夷攻撃が今、目前に展開されようとしている。時まさに16日夜11時、東方にパッと火の手があがる。西にも続いて北も。校長室の学籍簿を壕に入れホッと一息ついた時、「パーン、パッパッ」と光り花火のように落下する焼夷弾。校舎のあちこちで火が出る。盲学校の寄宿舎が物凄い勢いで火を吹き上げた。水を頭から被る。盲学校の炎がこちらへやって来て危険このうえもない。校庭には飛散した弾の油脂がメラメラと無数に燃えている。盲学校は燃え尽きて火の粉が第三校舎へ講堂へとどしどし入って来る。

 現場の火勢は大分衰えた。火はまだ屋根に残っている。「梯子だ、火叩きだ、水だ」。山はみえた。「命一つとかけがえに」と軍歌が思わず口をついて出る。

「おーい敵機は去ったぞ」「勝った、勝った」と声がする。

 挺身とはこのことだ。勇躍前進する兵とあまり変わるところはない。いい修練であったと神に感謝する。

 長い一夜は明けた。さすがに疲れが出たがさほど眠くはない。校長と門を出る。電車通りは全く通過困難である。帰校すると、上田先生宅は3人直撃で即死という。行ってみると、壕の中でお母さんが砂を浴びてこと切れている。その下に小さい男の子がうつ伏せている。もう一人の赤ちゃんは先生が抱いて洗っている。

「ばあちゃんこらえておくれな、アメリカにはきっと勝つぜ、仇は討つきな」

 涙ながらに洗う先生の声に込み上げるのをこらえることが出来なかった。

 

 8月15日(木)晴

 ああ、予期せざりし文字通り最悪の日来る。正午畏くも大詔は喚発せられ、米英ソ支四か国に対して遂に和を講うの止む無きに立ち到った。悄然襟を正して聴きいる吾々の肺腑をつく玉の御声のひびき。陛下の御胸中を推し測ると涙がとめどもなく流れた。じっと歯を噛んだ。口惜しかった。目の前が急に真っ暗になったような気がした。凡ての希望は失われた。

 大日本帝国は、昨日までの日本ではなくなったのだ。3千年の光輝ある歴史も遂に幕を閉じたか。軍艦マーチも君が代も、もう永久に聞けないかも知れぬ。新型爆弾の威力とソ連の参戦がこれ程まで事態を決定的ならしめようとは思わなかった。苦難の道、いばらの道、涙の生活が明日から始まるのだ。

 

 8月16日(金)晴

 国敗れて山河あり。一昨日までは「国敗れて山河なし、然らずんば死か」と意気込んでいたのに。窓外の蝉の声もうらめしい。朝起きるのも、朝食を摂るのも、出勤する足どりも全く力がない。子ども達に顔を合わせるのが恐ろしい様な気さえする。朝会が済んで教室に臨むのに気が引けた。しかし可愛い40の子どもたちが待っている。

 勇を奮って詔書の説明をし、今までの敢闘ぶりを讃え、将来への覚悟を説いた。吾ながら言々句々悲痛の叫びであった。子ども達は絶え入るように泣いた。俺も泣いた。泣きながら「臥薪嘗胆!」今日から新しい日本と共に生まれ変わったのだ。死んだつもりで如何なる苦難も乗り越えよう。

 

8月17日(金)晴

 子どもが13名来た。よい子ばかりであった。学校田の稗を採った。誰の口に入るかは分からぬが真剣にやった。作業を終えて教室に入り「君が代」を歌った。悲痛の極みであった。紀元節を、天長節をそして御製(ぎょせい)を、6年になって学習したあらゆる歌を子ども達と一緒に感慨深く歌った。おそらくこれが最後になるであろう歌を。高崎山にはいつものように雲が掛かっていた。蝉は相変わらず鳴いていた。だが吾々の胸の中は張り裂けそうであった。

「もうお帰り」と言ったが、

「先生勉強を!」と言ってどうしてもきかない。子ども達の真剣な目つきを見るとその願いを聞かぬ訳にはいくまい。よし、やろう、最後の授業を(第一次大戦の時、独仏国境の町でフランス語の最後の授業をした教授の話を思い出す)。子ども達よ、今の気持ちを忘れるな、じっと歯を噛んで我慢するのだ。

 市役所から老幼婦女の疎開命令来る。6年の子どもを集め町内会の家に手紙を回す。どうしてこんなことまで学校がしなければならないのか。半月が中天にかかって美しかった。

 最後まで頑張り続けた子ども達、俺の生命の子ども達とも遂に別れるべき運命の日が来た。願ってもせん無いことかも知れぬが子ども達の上に幸せあれ!

 

 

 

今年の誕生日は古稀

                                                                                    令和6年1月掲載 

 

                              福田 壽子

 

 令和5年6月5日、70歳の誕生日を迎えた。いわゆる古稀だ。

 古稀のイベントが4回あったので、忘れないように書いておこうと思う。

6月の中旬、友人3人とランチをした時、全員が古稀を迎えた訳で、それを祝って紫色のちゃんちゃんこを着て、紫色の帽子を被って一人ずつスマホで写真を撮った。ちゃんちゃんこは友人の一人が家から持参してくれた物である。それなりに可愛く写っている。記念になるなと思い、色々な人に見せたら、

「あら、古稀って紫色なんだ」

と驚きの声が多かった。還暦の赤色は知っていても、歳を祝う紫色のことは知らない人が多いのかもしれない。

 6月下旬、西宮に住む三女夫婦がお祝いに、江坂にある「PISOLA(ぴそら)」というイタリアレストランに連れて行ってくれた。そこは、厨房の中の人も接客する人も全員が女性で、動きがキビキビしていて気持ちのいいお店だった。ピザもスパゲティも全ての料理が美味しかった。生まれて5か月の孫、(ぜん)くんも一緒で4人での楽しい一日となった。

 私がパート勤務しているHAPIKA(ハピカ)保育園に3人の新しい方が入職されて、歓迎会が7月にあった。千里南公園内にある「バードツリー」というお店で、バーベキューと飲み放題の豪華な昼食会。ほろ酔い気分で肉をほおばっていると、保育園を経営している歯科医院の院長先生がいきなり、

「福田さん、おめでとう」

と、大きな花束を持ってこられた。古稀のお祝いをしてくださったのだ。花束なんて、もらったことが過去に一度だけあったけど、もう何十年も前のこと。とても嬉しくて、家に帰って早速花瓶に活けて写真を何枚も撮った。古稀に因んで紫色の花が多くあって、緑の葉っぱとのコントラストが綺麗で暫く見とれていた。

 7月下旬、夏休みに入って次女一家が埼玉県から、5歳と3歳の2人の子どもを連れて遊びに来た。そこへ、三女一家もやって来た。然くんを連れて、みんなで私の古稀のお祝いをするために集ってくれたのだ。お祝いのケーキと、「然」というラベルの貼ってある、祝い返しに貰ったワインを開けて皆で賑やかに乾杯した。

 次女は今回、2週間もわが家に滞在してくれた。本当に久しぶりのことである。その次女が私に腕時計をプレゼントしてくれた。私の気に入ったものを買うために、一緒に店を回って5件目でやっと、ゴールドでソーラーのオシャレな時計を買ってくれたのだ。私の大切な宝物になった。

 家族が揃うって幸せなことだと思う。千葉県に住む長女一家も一緒に、いつか全員揃って食事会をしたいというのが私の夢で、これは10年後の傘寿(さんじゅ)の時にとっておこう。それまで皆が健康で楽しく、充実の日々を過ごしてくれることを心から願っている。

 

 最近、坂東(ばんどう)真理子(まりこ)さんの『70歳のたしなみ』という本を、図書館で借りて読んだ。

 「人生70年、古来稀なり」という()()の詩から、70歳を古稀と言うらしい。

 心に残るフレーズが沢山あったので、記録して実践してみようと思う。例えば、

上機嫌に振舞っているだけで、周囲に明るい気持ちを与えられる。つまり、上機嫌に生きる。

◆やる気が70歳以上には不可欠である。

◆今日行く所がある、今日は用があると、仕事も用件も行く所も自分で作るのだ。

◆ボランティア活動をする。

◆自分自身の人生を肯定する。

読んでいて頷くことしきり。70歳が人生の節目であり、次のステージが始まる出発点なんだと、勇気づけられた。

 昔、子どもの頃、70歳と聞くとものすごく老人に思えたが、実際に自分がその歳になってみると、全く老人という自覚はなく、あるのは体のあちこちに支障をきたしているという自覚だけである。70歳の峠を越えるのは大変なことだと、つくづく思う。

 

 今年の前半は、腰を痛めて救急車を呼んだり、風邪と思っていた咳が長引いて喘息になっていたり、健康に不安を感じることが多かった。でも、何度も古稀のお祝いをしてもらって、忘れられない年になりそうだ。

 いつも一緒にランチをしている3人の友人に呼びかけよう。

10年後の傘寿は何色でお祝いをしようか。みんな元気でその日を迎えようね。そして皺だらけの顔で写真を撮りましょうね」

 

 それなりに可愛く写るといいな。

 

 

私の自慢

                                      令和5年12月掲載

 

 

                               八重桜

 

昭和52年、マンションの2階に住んでおられた中学校の家庭科の順子先生が、立ち話の途中でこう言われました。

「人間の身体っていうのはね、皮も骨も筋肉も、すべてが食べ物でできていることをいつも自覚してないといかんで」

その言葉は衝撃でした。看護学校で栄養学も解剖生理も多くの時間を費やして勉強していましたが、それはペーパーテストのためでした。家族を持ち3度の食事を作る毎日の中でも深く考えることはなく、大まかに4種の食品群を頭に入れて作るぐらいでした。

健康な身体を作るために本気で献立を考えなければ、と気付かされた言葉でした。

その頃、テレビの番組で一日の食品を30品目食べると、まずまず健康な身体を保つことができるということを知りました。やっぱり青木さんの言っているとおり、食べ物は非常に大事なことだと改めて認識しました。

その数日後、順子先生が、

「自分で味噌を作りませんか? 発酵食品は身体に良いし、塩分も12%に考えたよ」

と声をかけてくださいました。味噌作りの知識はありませんが直ぐにグループの仲間に入れてもらいました。

レシピは順子先生の手書きです。ミンサーはみんなで使いまわして、各家庭に順子先生が巡回するシフトも作成されました。

〔材料 〕大豆1.5㎏ 糀2㎏  塩560g

〔用具 ]圧力釜(大豆を煮る)   ミンサー(煮た大豆をつぶす)

寿司桶(糀をほぐす)

  網じゃくし(小)煮た大豆をミンサーに入れるのに便利 

  ボールとザル(煮た大豆をあける)   

 ボール(中)ミンサーから出てくる大豆をうける  

 ボール(大) 塩と糀を混ぜて潰した大豆と合わせる時に使う

出来上がりを入れる壺またはタッパーの容器

順子先生の書いたレシピは丁寧でわかりやすく、さすが中学校の先生と感服しました。しかしこの年は、9月の出来上がりに愕然としました。壺を開けてみると白いカビの山です。順子先生はとても申し訳ないとグループの皆に平謝り、頭を下げられました。

それから2年後、順子先生は自信たっぷりの満面の笑みを浮かべて言いました。

「味噌の最後に酒粕で蓋をするとカビが発生しなかったよ」

2年の研究と実験の結果です。頭が下がりました。それからは、材料に酒粕を追加し出来上がった味噌の上に、酒粕を丁寧に塗り空気が入らないようにして仕上げました。酒粕が防腐剤の役割と空気を遮断してカビの防止をしてくれました。

こうして私の味噌作りが始まりました。1年で一番寒い節分の頃、大豆を10時間ほど水につけて、レシピ通り大豆を煮ます。2年目も順子先生に手伝ってもらいました。

「あんたどんくさいね、手伝わずにおられへん。でも3年目からは自立してよ」

次の年からは子どもたちに手伝ってもらっていましたが、子どもがお嫁に行くと、次は姪に手伝ってもらいました。

次は嫁いだ娘と、よちよち歩きの孫がマスクをして糀をほぐしたり、ミンサーでミンチにした大豆をお団子にして、まるで砂場のどろんこ遊びのように味噌づくりに参加して、我が家の楽しい行事の一つになり40年目を迎えました。

 最近は、作る量も少なくなり夫婦でのんびりと作っていますが、味噌の入った壺が重たくて孫に地下まで運んでもらう年齢になりました。夏に発酵した糀と大豆が味噌になり、今年も10月に酒粕をめくると、味噌の香りがぷんとして美味しい私の自慢の味噌が出来上がると思います。楽しみです。

 

私のもう一つの自慢料理は「カツオのたたき」です。

3枚におろした大きなカツオの血合いをとり、一枚を二個に切り分けて塩を少し振り、4本の金串をさして全体が白くなるまでガスで焼きます。今はIHコンロなので金串も使わず、フライパンで全面を焼き付けます。IHコンロで初めて焼くときは心配でしたが、ガスで焼くのより上手に焼けて簡単です。

家族4人の頃は1匹で十分でしたが子どもたちが所帯を持ち孫も大きくなると、1匹では足りなくなり、2週に分けて作ることになりました。

タタキは誰にでも作れますが、大切なことは、鰹の鮮度の良いことです。焼き過ぎないことと焼けたらすぐに氷水につけて冷やすこと。その後は、ペーパーで水分をふき取り、冷蔵庫で冷やしたカツオを切って大皿に盛り、カツオの切り身の間にたっぷりのネギ、薬味を入れて軽く叩き来上がりです。ここで2人の娘に電話をかけると2人とも笑顔でやってきます。その嬉しそうな顔を見ると、私はまた元気が湧いてきます。

 

 

 

古代史の旅

                                          令和5年11月掲載

                         

                                  佐藤 彩

 

私が古代史の魅力を知ったのは30代中頃のこと。枚方市のミニコミ紙に所属し、地域に伝わる七夕伝説を手掛けたことがきっかけであった。教科書には出てこない古代史の面白さを知り、その後は新聞や雑誌で古代史の記事を見かけると熟読し、関西にも多くの遺跡が存在することを知ると、いつの間にか私は古代史ファンになっていた。

わが国最古の都である飛鳥に何度も足を運び、歴史好きな友人と、竹ノ内街道をはじめ、山辺の道、葛城古道などを歩いた。

 

 飛鳥(あすか)最古の豊浦宮(とゆらのみや)

 

雉の声で目が覚めた。

〈そうか、飛鳥に来ていたんだ〉

令和5年5月、私は三原市に住む友人と二人で、飛鳥に来ていた。民宿を予約したのは、友人が自転車に乗れないため、巡回バスの利用ではとても一日で飛鳥を回れないと判断したからだ。ぼんやりとした頭で、前日のことを思い出していた。

 

前日はまず、飛鳥資料館で飛鳥の全容を友人にざっと知ってもらい、その後、バスで飛鳥寺へ。わが国最古の都として知られる飛鳥だが、飛鳥寺は最古の寺であり、飛鳥大仏も最古の仏像である。現在の本堂はかなり小さいが、創建当初の飛鳥寺は塔があり、その東、西、北に3つの金堂を置く「一塔三(いっとうさん)金堂式(こんどうしき)伽藍(がらん)」であったとのこと。回廊もある広大な寺院は、高句(こうく)()の技術により建立されたとの説明を受ける。大仏の面長なお顔立ちは確かに、朝鮮半島から伝わったことを感じさせるものだ。

その後は歩いて酒船石(さかふねいし)遺跡へ。これは二つの遺跡の総称だが、私が初めて飛鳥を訪れた時は、丘の上にある酒船石しかなかった。平たく大きな石には何本もの溝が掘られ、そこに液体を流したであろうことは容易に想像できた。記録が何も残っていないことから、謎の石といわれている。

その丘の裾に多くの石を使った遺跡が発見されたのは、平成4年のこと。亀の形の石造物と小判型の石造物が北の端に置かれ、そこからは丸みを帯びた石がテラスのように敷かれていたり、階段状の石垣になっていたり、幾筋もの溝や石段を形作ったりと、大きな石敷き広場となっている。

まず、四角い石を使った湧水施設があって、その下に小判型の石造物があり、亀形石造物へと続く。一見しただけで湧水施設から石造物へ、次々と水の流されていたことが分かる。

〈ここで一体、何が行われていたのだろう〉

 訪れたすべての人が思うことである。日本書紀には、(さい)(めい)天皇2年の条に「宮の東の山に石を(かさ)ねて垣とす」「石の山丘」の記述があることから、この酒船石遺跡は斉明天皇の「両槻宮(ふたつきのみや)」ではないかとの推測もある。そしてここで行われていたのは、祭祀的なものであろうとか、外国からの貴賓をもてなした行事であろうなどと、様々な憶測がある。丘の上の酒船石とは関連があるのか、ないのか、そのあたりも謎のままである。

 

 この日は5月としては異常なほど暑かった。この後、友人と私は(あま)(かしの)(おか)登り、夕焼けの二上山(ふたかみやま)を眺める予定だったが、二人とも疲れ果ててしまい、チェックインの時間には少し早いけれど予約した民宿・北村へと急いだ。

 民宿のオーナー夫妻は友人と私を温かく迎え入れてくれた。

「一休みされたら、お散歩はどうですか? (うち)の裏手に昔から『古宮(ふるみや)』と呼ばれる小さな遺跡があるんですよ。その周りの田んぼや畑はすべて(うち)の土地ですが、遺跡とその周囲数メートルは国有地なんです」

 その遺跡から金銅製四環壺(こんどうせいしかんつぼ)なるものが出土したのは明治8年のこと。それは口径20センチ、胴径41・8センチ、高台径26センチ、重さ2168キログラムの壺で、今も宮内庁三の丸尚蔵館(しょうぞうかん)に収蔵されている。

「遺跡」の文字に惹かれて二人でそこに向かった。目印となる一本の木があり、遺跡は田んぼより数十センチほど高くなった台状の土地であった。夕暮である。木の向こうに目をやると、オレンジ色の夕空に、畝傍山(うねびやま)のシルエットが美しかった。

(うち)で採れたお米と野菜です。ごゆっくり」

 夕食は心づくしの和食である。女将の人柄が伝わるような献立であった。その和室の隣の部屋に、大きな書棚を見つけた。書籍はすべて飛鳥にまつわるものばかり。私はご主人に聞いてみた。

「明日は甘樫丘に行くつもりですが、この辺りにお勧めの所があったら教えてください」

「ありますよ。このすぐ近くにある向原寺(こうげんじ)はとても古いお寺で、そこは飛鳥最古の豊浦宮(とゆらのみや)跡に建てられたものです。ご本尊は数奇な運命を辿った仏様で、その救出には私の父も一役買ったようです」

 飛鳥には「最古」というものがいくつもある。なにしろ最古の都なのだから。

「向原寺のあと、甘樫丘に登ってここに帰って来てください。ご希望の所まで、(うち)の車で送りますよ」

 ここのご夫妻はどこまで優しいのだろう。お言葉に甘えることにした。

 

 推古(すいこ)天皇は592年、豊浦宮で即位した。その宮は()()氏一族とゆかりの深い、甘樫丘の麓にあり、この時推古天皇を支えて、政治面で活躍したのが聖徳太子である。天皇退位のあと、宮は飛鳥の岡本に移され、豊浦宮跡には尼寺の(とよ)(うら)(でら)が建てられた。それは、金堂、講堂、塔などのある壮大な伽藍であった。その後、この地に建てられたのが向原寺である。

 

「北村さんから聞きました。お参りさせてください」

 そうお願いすると、ご住職の奥さまはすぐに本堂へと案内してくれた。拝観料はいらないと言われる。ご本尊は40センチ足らずの観音菩薩であった。ここで、民宿の北村さんの言っていた、仏様の〝数奇な運命〟を聞くことができた。

 それは、1772年、お寺の南にある難波(なんば)池から、仏様のお顔部分だけが見つかり、その後、胴の部分が作られて向原寺に安置された。しかし、1974年には盗難に遭って行方不明になってしまった。そこから36年後の2010年、何とオークションのカタログに掲載されていることが分かって、向原寺が買い戻したのである。この時、ご住職に同行して東京に行ったのが、北村さんのお父さんだったのだ。檀家総代だったのであろう。

 専門家の鑑定により、仏様のお顔部分は飛鳥時代のものと判明した。やわらかな笑みを(たた)えた慈悲深いお顔立ちで、お願いすれば誰でもお参りできるようだ。

 最後に案内されたところが圧巻であった。奥様はこのように説明された。

「ここは豊浦宮の跡です。日本で一番古い宮殿の跡です」

 それは境内の一か所に、四角く掘られた発掘跡で、敷石が並び、隅には柱の跡も見られる。発掘の一部がしっかり保存されているのだ。1400年前の最古の宮殿跡。一瞬、時が止まったように感じた。友人は? と見ると、彼女も体を固くして発掘跡を見つめている。

 発掘調査は昭和34年であった。この敷石は周囲に広く広がっていることも確認されたが、向原寺周囲には多くの建造物があり、発掘には限界があって全容はまだ分からないようである。

 

向原寺の歴史は非常に興味深く、私達の急なお願いにも関わらず詳しく説明してくださった奥様に感謝して、お寺を後にした。北村さんとの約束の時間が迫っているので、甘樫丘に登るのをやめて宿に戻ると、北村さんは本当に石舞台まで車で送ってくださった。しかし、石舞台はその日、団体客が非常に多くて石室の中に入ることはできず、次に向かったキトラ古墳も来館者が多いため、ゆっくり見学を楽しむことができなかった。キトラ古墳は年に何回か特別展を開催するので、また改めて足を運ぶことにしよう。

 飛鳥はまだまだ、謎に満ちている。明日香(あすか)村は世界遺産登録申請に向けて準備を進めているようだが、ニュースで問題になっているオーバーツーリズムの心配があり、飛鳥ファンとしては非常に複雑な心境である。 

 

一泊二日の旅を終えて、帰宅後スマホの画像を見て驚いた。〈これは何?〉と思うものが写っているのである。向原寺の豊浦宮跡の画像のみ、斜め上から射す光が幾筋にもなって写りこんでいる。朝の太陽光線とは角度が異なるようだ。

 次に飛鳥へ行くときはこの画像を持参して、あの日お留守だったご住職の見解を聞いてみようと思う。

 

 

老いの不意打ち

                                          令和5年10月掲載

 

                                               岩崎 秀泉

 

老いは人に不意打ちを食らわせると聞いたことがあった。最も記憶力、瞬発力の衰えは徐々に減退傾向にあったが、なだらかな坂で下っていくくらいに思っていた。

ところが昨年の11月16日、AM9時過ぎ、自転車で刺し子教室に通う途中、少し下り坂になっている交差点に勢いつけて入ったところで転倒した。

自転車は小学生の頃から乗っているので、どこに行くにも自転車を利用し過信していた。かなりの痛みが伴い転んだまま起き上がれない。尋常ではないとすぐに察した。直ぐにあちこちから人々が集まってきてくださり、「救急車を呼びましょう」といってくださる人、私を起こそうとしてくださる人、ちらばった荷物を集めてくださる人、自転車を起こしてくださる人等、親切な方の集団のようになった。有難い事である。が、私は右肩、腕に異常を感じ、どこを触られても痛くて触わられるのがこわかった。腕を持ち上げ起こそうとしてくださる人が多い中、私の痛みを察して、

「腕を触らないで」と前に進み出て腰を持ち上げて、上手に起こしてくださった方がいた。思わず、「看護師さんですか」と口に出た。「元、看護師です」とのこと。地獄で仏に会ったくらい嬉しかった。

その方が、

「前が整形外科ですからそこに行きましょう。転ぶところを私が一部始終見ていたから説明します」と言ってくださり、真ん前の整形外科に上手に運んでくださった。そして状況を説明してくださり優先的に診断してもらえた。さすが元プロと感心した。右肩と腕の二か所骨折、2か月の診断。肩から三角巾をかけ、その上をコルセットで固定された。

転倒した自転車を整形外科の駐輪場に運んでくださった若い男性、散らかった荷物を片付けてくださった方等、色々な人にお世話になった。が私は病院に運びこまれるやいなや、レントゲン、処置等を受けたので、どの方にもろくにお礼が言えていない。見ず知らずの方なのに皆さん真剣に対応してくださった。この場を借りてお礼を申し上げたい。

処置後、タクシーで家に帰ったものの痛みは半端ではない。生まれて初めての骨折。服の脱ぎ着をはじめ自分では何もできない。近くに住む娘が朝夕、勤めの行き帰りに手伝いに来てくれた。が、ちょうどこの時期、娘は新しい仕事の立ち上げを任され、多忙を極めていた。帰宅してからもリモートで会議・研修する娘を見て、

〈甘えてばかりはおれない。このままでは娘が倒れてしまう〉と心を切替え、出来ないながらも自分で取り組むよう方向転換した。痛み止め、炎症留めを飲んでも夜、ベッドでは痛くて眠れず、ソファーで座ったまま眠る日が続き、自分のしたこととはいえ何時まで続くのかと、ふさぎ込む日が続いた。

また、自分の言動をふりかえって、反省点を見つけると共に、数年前に脊髄3か所を骨折し、そのため、尿の神経を圧迫し尿漏れの原因となったにもかかわらず、誰にも言わず一人で乗り越えた兄を思い出した。さぞかし痛くて不安だったと思う。よく乗り越えたものと改めて感心し、知らなかったとは言え、なんの手伝いも出来ず申し訳なさが湧き出てきた。振り返ると入院を嫌がる兄のために1年3か月広島までの遠距離介護に通っていた時期と、私の骨折が重なっていたら私の心痛は、いかばかりであったかと察した。私が骨折する前に神様は兄を嚥下障害から肺炎、また酸素不足等でやむなく入院させられた。

私が骨折しても治療に専念出来るように神様が慈悲をおかけしてくださったのでは、と思えてきた。タイミングが合いすぎる。また、転んだところが整形外科の真ん前、お世話くださった方が元看護師(女性)、条件が整いすぎている。不思議な世界を見たような気がした。

友達に4回骨折したという自称骨折の女王がいる。

「日にち薬よ、必ず治るから」と教えられ、マイナス思考でふさぎ込んでいた私の気持ちも少し楽になった。

骨折して感じたことは、肩から三角巾をして、その上にコルセットをして歩いていると、見知らぬ人から毎日のように声をかけられる。

「どうされたのですか?」

その後はご自分の体験談をいろいろ話してくださる。心が和むひとときだ。また、知らない人がいろいろなところで手を貸してくださる。スーパーの袋詰め、落としたものはサァーと拾ってくださり、自然な形で手を貸してくださる。心で感謝しながら、日本もまだ捨てたものではないと思え、私も元気になったら御返ししたいという気持ちになった。

毎月レントゲンを撮り、骨の付き具合を確認しながら様子を見、2か月が過ぎたころ、

「骨は出来てきてる。リハビリに入りましょう」

との事で、週に2回通うことになった。右手はまだ上がらず、痛みも伴い思うように動かず、何をするにも右手は頼りない。年齢もあり簡単には元に戻らない。人間の体はいかに精密に出来ているのか、改めてわかった気もした。固定していたため、固まっている筋肉をリハビリでほぐしながら運動もしましょうと理学療法士さんからの説明があった。

そういう中で「源泉のかけ流し」が回復には効果がある話を聞いた。調べてみると「源泉のかけ流し」とは言葉の通り源泉である温泉水が、かけ流しの状態で循環機器などにより、ろ過されていないもので、源泉の成分を損なわず本来の泉質による効果適応性を直接感じ取れるもの。効能は疲労回復、筋肉痛、冷え性、胃腸病、運動麻痺、関節のこわばり、くじき、リュウマチ、腰痛、高血圧、切り傷、打ち身、関節痛となっている。

早速、娘婿が調べて車で宝塚の「源泉のかけ流し」に連れていってくれた。そこまでの期待感を持って臨んだわけではなかったが、実際ゆっくり温泉につかり家に帰った夕方から体が軽くなり痛みも薄れてることに気づいた。これって?〉と思い、その状況が2日間続いた。温泉の効能が読み取れた気がした。その後、また筋肉は固くなり痛みも伴ったが、「源泉のかけ流し」を続ければ体にいいのが身をもってわかった。

骨折などの怪我、腰痛、五十肩などを含む整形外科的な疾患は「運動器リハビリテーション」で機能改善を図るが、その期限は診断を受けた日から150日だそうだ。後、1か月リハビリは続く。先生曰く、

「骨はついてるし、痛みさえ我慢すれば日常生活は出来るはずだ。」

「そのとおりですが、その痛みが……」と言いたいところだが、誰がしたのでもなく、言っていくところはない。徐々に回復し闇から抜け出しつつあることは確かだ。

年齢を重ねて転ぶと骨折しやすいのもよく分かった。

 

「濡れ落ち葉 乾いて自力で燃え上がれ」ではないが、今の世の中、何歳になっても望めば学んだり、何度でもスタートラインに立てることに感謝しつつ、つらい出来事もちょっと俯瞰して眺めて笑いに変え、もう一度新しい人生を生き直すくらいの気概を持とうと考えを新たにした。

 

 

小噺 二

                                         令和5年9月掲載  

                                         宮本 吹風 

 

 平凡な生活の中でも、ささやかな珍しいことがある。居酒屋でおでんをつまみながら会話するような、小噺の第二話である。

 

人の心も知らないで

 朝食を摂るダイニングのガラス戸からベランダが見える。妻が、

「あの鳥何て言うのでした?」

「あー、(ひよどり)だ」

物干し竿の先に停まっている。目を離した瞬間、

「あっ、虫を(くわ)えて行った」

 妻は目撃していた。

 ベランダにはいろいろの植木が置いてある。中でもアゲハ蝶が卵を産み付けるのは、ライムとサンショウの木である。放っておくと幼虫が沢山ついて葉を食べ尽くしてしまう。卵から(かえ)って間もない幼虫は葉の表に黒い点のように見える。3日置きくらいに葉の表を観察して、小さい幼虫を見つけると爪先で弾き飛ばしていた。

 それが、先日見つけたのは大分大きくなり身体の色は緑色になっていた。私の目を盗んでここまで成長したのだからと生かしてやることにした。蛹になり蝶になるのを観察する楽しみもある。毎年何匹かは蝶になっている。

 それが何と鵯は人の心も知らずに幼虫を(さら)って行った。

 別の日、ブラックラズベリーが熟してきた。実は熟すと次第に黒くなっていく。完熟したら採ろうと楽しみに待っていると、これも鵯が来て持って行ってしまった。鳥も賢い。食べ頃を見張って待っているのだ。

 

白ワイン

 長男から電話があった。「明日、室津(むろつ)牡蠣(かき)を持って行く」とのこと。翌日の夕食は牡蠣を当てにワインを飲む楽しみが出来た

私は俳句の例会が近づいたこともあり、句作をしていた。ひらめいた句は、

牡蠣届く白ワインのマリアージュ

 

先取りの句だ。この句を妻に披露すると、

「日記でも先取りを書いて、後で違っているのを直しているでしょ」

 日記は毎日つけている。日によっては、朝、昨日の書き残しを記帳するついでにその日の行動予定を書くことがあった。

 牡蠣が届いての夕食前、台所のカウンターに赤ワインが置いてある。妻はワインの赤は常温がよいと思いワインセラーから出していた。

「牡蠣は白ワインの方が合う。俳句を聞いているだろう」

妻は失敗を認めウインナーとマイタケ炒めの料理を始める。私はその間ギターの練習をしていて、そろそろ夕食の時間が来たと思い、いつもの習慣で酒燗器に酒を注ぎ入れた。

「今日は白ワインですよ」

 慌てて酒を元へ戻し、ワインセラーから白ワインを取り出した。1時間前の会話を忘れていた。牡蠣をレンジで焼く。殻を開いて大根おろしにポンズをかける。ワインとのマリアージュは格別である。

 

   三度目の焼き芋

 一度食べてみたかった焼き芋店がある。桃山台にある店へ散歩を兼ねて歩いて行った。片道20分。この日は寒く、時々小雪が舞っている。店に着いて挨拶すると、

「芋は焼き始めたところで、まだ焼けていません。」

「昨日も来たのですが、閉店でした」

 昨日は商店街が休日であったのを知らなかった。帰り、焼き芋屋の向かいにある肉屋に寄った。午前中のテレビのコマーシャルにカレーライスを美味しそうに食べていたのを思い出した。私は影響を受けやすいタイプで、夕食は久しぶりにカレーライスにしようとカレー・シチュー用の牛肉を買った。

 芋が手に入らなかったので代わりの昼食がいる。近くのスーパー「ライフ」で鯖の巻きずしを買う。レジに居る店員の胸にある名札を見ると、「まわたり」とある。珍しい名前なので訊く。

「まわたりは珍しい名前ですね、どういう字を書くのですか」

「馬に渡です」

 日本は苗字の数の多さでは世界一ではなかろうか。韓国は少ない。

 帰宅して買って来た2パックの鯖寿司を妻と食べる。

「同じ物を2つより別の物を2つにすれば、2種類味わえるのに」

「わしは鯖が好物だ、もう1つ買うとしたら稲荷寿司だ。」

「私は普通の巻き寿司の方が好きです。私のことを考えていないでしょう」

 長年一緒に生活していても、些細な食い違いがいまだにあるのだ。

 翌日、3度目の正直で、焼き芋店へ行く。

「小さいですが、いま焼けたところです」

 3種類の焼き芋を買い昼食にする。ほくほく、ねっとり、種類によって味も食感も違う。子どものころに食べた芋はもっと白っぽくて甘味がなかった。長いこと芋は旨いものではないという先入観をもっていたが、いまは旨いと思う。

 

  高くついた

 新聞のチラシの中で、ガストの広告にクーポンがあり、ビールは半額とある。暫く外食はしていない。1週間後の夕食に行くことにした。当日、家を出る前にクーポンを切り取ろうと鋏を使っていると、妻が見て、

「店が違いますよ」

 気がつかなかった。1枚のチラシに同じガストでも「ステーキ・ガスト」と「レストラン・ガスト」があり、他に「バーミヤン」もある。近所のガストを確認するため、グループを統括している問い合わせの電話番号があり、「すかいらーくお客様相談室」へ確認した。私が食べたいのは「ステーキ・ガスト」の方で近所のガストではない。ガストはあきらめたが、せっかく出かける仕度をしたので他へ行くことにした。

 昨年(令和4)3月、駅近くにオープンした焼き肉店「(すだく)チラシ見て一度行ってみようと思っていた。焼き肉のコースを注文する。店内の換気は十分でコロナの心配はない。いつもは酒か焼酎であるがビール久しぶりに注文する。焼き肉に合う。歳を忘れてジョッキで3杯飲む。帰り妻が言う。

 

「クーポンを使おうとしたのに結局高くついたわね」

 

 

大切なこの瞬間(とき)

                              掲載 令和5年8月

 

                           みやうち けいこ

 

「いぶきちゃん! 1さいのおたんじょうびおめでとう!」

 

 西村(にしむら)伊吹(いぶき)君は1年前の3月27日に、娘の志津佳(しづか)と娘婿の(ゆう)()さんの間に産まれた私の初孫です。芦屋のお家で1歳のお誕生日を盛大に祝いました。盛り上がっていたのは大人たちで、プレゼントに囲まれた伊吹ちゃんはキョトンとしていました。きっと大きくなっても1歳のこの日の記憶はないのでしょうが、私たち家族にとってはとても感慨深い「大切な日」なのです。病気や怪我もなく、すくすく育ったことに拍手。

「にしむらいぶきくん」

と呼ぶと、こちらを向いて右手をあげます。私たちが人差し指を立てて、

「いぶきちゃん、1さいおめでとうー」

と言うと、かわいいひとさし指を立てて、嬉しそうに笑顔で応えてくれます。そしてこの1年間よく頑張ったねという気持ちを込めて娘夫婦にも拍手喝采。

 ふたりはお互いを思いやり、助け合い、よく話し合って伊吹ちゃんを育てています。ベビーマッサージ、ねんねトレーニング、絵本の読み聞かせ、離乳食、戸外遊びなど、本当に一生懸命に。

40年程前に私が4人の娘を育てている時は、『スポック博士の育児書』と『子どもの病気百科』だけが頼りでしたが、最近ではスマホで居ながらにしてたくさんの情報が得られます。時間短縮になり、とてもありがたいことですが、情報過多のような気がします。育児に限らず、介護、健康、運動、栄養など数々のの情報に振り回されて心と体のバランスを崩さないよう、受け取る側が取捨選択する必要があると感じます。

 

志津佳と話をしていると、時々「忘れた」「覚えていない」「えっ、そうだった?」と言うので、どうしたのかと訊ねると、

「毎日がいっぱいいっぱいで昨日のことを覚えていない。マミーブレインかもしれないわ」

産後ぼけのような現象で睡眠不足や疲労が原因とのこと。それを聞いた私は週1回ベビーシッターに行くことにしました。ちょうど伊吹ちゃんが7か月に入り離乳食が始まった頃です。最初は母親の姿が見えなくなると泣いていましたが、最近は笑顔で出迎えてくれます。

「いぶきちゃん、こんにちは。また来ましたよ。久しぶりだけど元気だった?」

と挨拶をすると、こんにちはという風に片手を挙げて、そのあとペコリと頭をさげます。〈なんとかわいい! 今日もがんばろう!〉と掃除、洗濯、食器洗いを大急ぎで済ませ、

「さあ! いぶきちゃん、いっしょにあそぼうね。公園で遊ぶ?」

 と言うと、玄関へ行っておとうさんに買ってもらったベビースニーカーを持ってきます。〈すごい! まだおしゃべりができないけれど、コミュニケーションができている!〉と、めざましく脳が発達しているのを感じます。

 公園は段差や溝があり、危険がいっぱいで目が離せません。かなりしっかり歩けるようになった伊吹ちゃんはどんどん先に行きます。トコトコと歩いたかと思えば、おすわりをして砂いじり。さらさらと手から落ちる砂の感触を楽しんでいる様子。水遊びも大好きで、手や服が濡れても平気です。色とりどりに咲いているお花に顔を近づけて、ウァーと言ってなでなでするので、

「お花が綺麗に咲いているね。ほら、いい匂いがするでしょ」

家の中では、何でもポイッと投げるのに、草花はちぎって投げないのが不思議です。自然の中で、風の音、鳥のさえずり、葉ずれの音を聞き、砂や水に触れて五感が鍛えられるのでしょう。ひとりで黙々と砂いじりをしている可愛いうしろ姿はとても愛おしく、ギュッと抱きしめたくなります。〈素直にすくすくと幸せに育ってね、私も応援しているよ〉と、どろんこ遊びのお手伝いをしています。

「いぶきちゃん、そろそろお昼ごはんだよ。おなかすいたでしょう?」

と声をかけると、急いで食事用のベビーチェアーによじ登り、マンマ マンマと催促します。

「おててをきれいにしてからたべようね。じゃあ、いただきます!」

と言うと、かわいい両手をあわせます。おとうさんやおかあさんのしぐさを真似ている健気な姿に胸がキュンとなり涙が出ます。

母親に似てくいしんぼうの伊吹ちゃんは何でもよく食べるので、離乳食で困ったことはなかったのですが、1歳を過ぎると好き嫌いが出てきました。顔をそむけて口を閉じたり、舌で食べ物をベェーと押し出したり。味ではなく、固さや食感が気に入らない様子です。毎日食事作りをしている娘は、栄養面も考えて試行錯誤を繰り返しているようです。

〈しづかおかあさん、がんばってね!〉

私がベビーシッターに行っている間、家事育児から解放された娘は、昼寝をして睡眠不足を解消したり、美容院、図書館、病院、買い物などに1人で行きます。子どものことを考えない時間が持てて、とても助かっていると言います。私は半日、伊吹ちゃんとふれあえて幸せと元気をもらえるので一石二鳥です。

 

思い返せば両親も孫たちを本当に良く可愛がってくれました。料理好きの母は美味しいおかずを作り、健脚の父は遠くまで散歩に連れて行ってくれました。事あるごとに3世代が集い、わいわい賑やかだった頃が懐かしく想い出され、心がほっこりとします。当時、娘たちは感謝の気持ちを手紙に書いて渡し、両親は孫から受け取った手紙を嬉しそうに何度も読んでいた姿が目に浮かびます。

「おじいちゃん、おたんじょうびおめでとう! いつもさんぽしてくれてありがとう。ずっとながいきしてね」

「おばあちゃん、おいしいごはんをつくってくれてありがとう。またいくね」

 かれこれ40年ほど前の話です。今となっては聞く(すべ)もありませんが、娘や孫を大切に思う気持ちは今の私と同じだったと思います。

「おとうさん、おかあさん、ありがとう。これからもずっと私たちのことを見守っていてね」

 

 わが家のアイドルの伊吹ちゃんはめざましい成長の真っ盛り。しぐさの一瞬一瞬が可愛くて感動と笑顔と幸せをもたらしてくれます。今のこの大切な瞬間(とき)を忘れないように、しっかりと心にとどめておくつもりです。

 

「いぶきちゃん、そろそろねんねのじかんだよ」

と声掛けをすると、ウェーンと甘えた声を出して、だっこーと両手を挙げるので、腕に抱えてゆらゆらしながら、唄いました。

「いぶきちゃんはおりこうね。だいすきすきよ。うまれてきてくれてありがとう。しっかり食べて、よく寝て大きくなってね。お話ができるようになったら、いっぱいおしゃべりしようね」

 ふと気がつくと、天使のような寝顔ですやすやと眠っていました。

 

 

 

背くらべ

                                          令和5年7月掲載

 

         金子 風香

 

5年ほど前に主人にこんなことを言われました。

「お母さん、少し背がちぢんだのかな、それとも子どもや孫達が大きくなったのかな」

 ふと気が付くと、私達と、3人の子どもたちのそれぞれの家族、みんなで12人ですが、私が一番小さいのです。

毎年受ける健康診断でも、身長、体重の測定はあるのですが、我が家でも5年前から主人と2人でまた背くらべを始めたのです。

毎年測ってみると何と、5ミリずつくらい小さくなっています。この5年で3センチほど小さくなっていました。主人はあまり変わっていません。

子どもや孫達に背丈を追い抜かれ、我が家で一番小さいのはおばあさんの私です。最近主人は口癖のように

「また小さくなったね」

 と言います。私は、

「頑張ってよく働いたので小さくなったのかな、かわいいおばあさんでいたいですからね」

 と、言い返しますと、クスクス笑っています。

 今は、主人と2人だけの生活です。余暇に、私は二胡のお稽古、習字、スクラップブッキング等のお稽古を楽しんでいます。主人は手慰みにハモニカを吹いて楽しんでいます。ハモニカのお稽古はコロナのためお休みになってしまいました。最近は、服部緑地公園にハモニカの同好者がいて一緒に吹くこともあります。

 時には童謡の「背くらべ」を吹いています。

 

      背くらべ

              作詩  海野 厚

作曲  中山 晋平

                                                                  

♪柱のきずは おととしの

五月五日の背くらべ

ちまき たべたべ 兄さんが                                      測ってくれた背のたけ

       昨日くらべりゃ 何のこと 

       やっと羽織の紐のたけ♪

 

 思い起こすと五月五日、私が小学生の頃は、母が毎年、この歌を口ずさみながら弟と一緒に背くらべをしてくれました。柱に傷がついてはと背丈に合わせて少し紙を張り、母が洋裁に使用する長い竹ざしで測ります。

私はその日がとても楽しみでした。測り終えると母はこう言ってくれました。

「今年は5センチも伸びたね」

すると4歳違いの弟が残念そうにひと言。

「僕は3センチしか伸びてへん」 

母は弟をかばってこう言ったのです。

「女の子は小学校の高学年の頃から、 男の子は中学校の高学年あたりから背がぐんぐん伸びるの。そのうちにおねえちゃんを追い越すよ」

その時の母のやさしい笑顔は、今も忘れることはありません。 

私は小学6年生の朝礼では、かなり後ろに並んでいたのを思い出します。でもその後、背丈はあまり伸びていません。

母は中学2年生に成長した私を見て、亡くなりました。弟の成長は見ないままでした。

私も結婚をして3人の子どもに恵まれ、子どもの頃楽しんだ背くらべを今度は私の子どもたちにしてあげました。

子どもたちの頃は、柱に立てかけて測ることのできる、長い板でできた計測器があり、十数年の間は、その計測器を使い、3人が記録をつけていました。

 3人の子どもは姉2人と弟です。長男が生まれた時、長女は8歳、次女は6歳です。姉2人の、弟の可愛がり方は大変なものでした。まるで母親が3人いるかのようです。弟の身長を測るのも2人で競い合っていました。

 背くらべの日、姉たちは大張り切りです。姉妹はいつもこんな話をしながら交代で測っていました。

「お姉ちゃん、4センチ伸びたよ」

「私は5センチ、弟は7センチ」

「違うよ、弟は8センチ」

と、自分たちの背丈より弟の背丈のほうが気になるようで、2人の眼差しは何事も弟中心です。この背くらべは息子が15歳の頃まで続いていました。  15歳になると男の子も、成長期を迎え、背の高さも姉たち2人を追い越し、主人や私も追い越し、頼もしく感じました。

それから十数年たち娘、息子に孫が4人生まれました。お正月に、我が家に集まると、やはり背くらべが始まります。

今では一番下の孫も16歳になり我が家の女性6人の内いちばん背の高い女の子に成長しました。

「みんなが健康で大きくなる」これは私の一番の楽しみです。

母が教えてくれた私と弟の背くらべ、3人の子ども達の15年にわたる背くらべ、又孫達との背くらべ、そして5年ほど前から始まった主人と私の背くらべ。これからも、もう少し楽しみたいものです。

 

 

 

 

高野台慕情50

                                       掲載 令和5年6月        

忘れがたき ふるさと

~れんげ畑~

     江藤憲子 

 

 シリーズの「高野台慕情47」で書いているが、昨年12月に写真展を観に行き魅せられた1枚の写真があった。題名「夢心地」の作者西條親来(さいじょうちから)氏から心ならずも、その写真の贈呈があった。氏は写真展の主催者で「写楽22」の会長だ。以後、毎月の写真展に関する写真と説明文をメールで送って来るメル友になった。

 今回の写真は「れんげ畑」だった。氏は次のような説明文を送って来た。

「れんげ草は、生まれ故郷の田舎の田んぼ一面に見事なまでに咲いていました。それを思い出してカメラに収めました。先ず、田んぼのある場所の状況を説明します。

中国自動車道の滝野社インターで降りて10分程に『ヤシロカントリークラブ』があります。車で走った所に広大な農地があり、れんげ草と菜の花の両方が、一面に植えてありました。普通は、れんげ草だけを見ることが多いので、珍しいと感じて、撮影作業に入りました。  

 

田んぼにれんげ草があるのは、ごく普通ですが、これには大きな意味があります。れんげ草には、土を肥やす効果があるから。稲を植え付ける前にれんげ草を作って、すき込み土の肥料分を増やしておく。これを緑肥と言う。れんげ草が肥料になるのは、根っこの部分に根粒と言う根がある。この瘤の中には根粒菌と言う細菌が住んでいる。根粒菌は、空気中の窒素を植物が使える形に変え、植物に与える。れんげ草は根粒菌に養分を与える代りに肥料として窒素を貰う共生関係を結んでいる。人間同志も同じことが言えるであろう」氏から頂いたメールは胸に響く写真とコメントだ。写真の輝いて咲いているれんげ草と菜の花に思わず声を上げた。確かに化学肥料を避け、環境保護を目指すれんげ畑のサスティナブルを配慮する農耕の姿が見えて来る、氏はれんげ畑の広がる故郷で育まれた遠い日々を脳裏に描きながら撮ったことであろう。

写真は、言葉を超え、その時代の豊富な情報を鏡のように写している。希少価値になった菜の花や、れんげ畑は農薬まみれの米を口にしている現状を、辣腕のカメラとメールで訴えかけてくる。

 

深深と蓮華の花をクッションに 

ふるさと歌う忘れがたき日よ   (憲子)

 

終焉の地、高野台、ヒメボタルが生息する傍にれんげ畑があった。ヒメボタルを守るように。吹田市の私の知る範囲では、山田西、南金田、江坂(大池幼稚園)前などにれんげ畑が残っている。

異郷に生きて、無性に故郷に会いたくなる。れんげ畑に遊びたくなる。氏の最初の言葉は、「れんげ草は生まれ故郷の田舎の田んぼ一面に見事なまでに咲いていました。それを思い出してカメラに収めました。」

望郷の想いは、甘く、切なく、哀しい。メールと写真は胸に迫ってくる。

九州、筑後の山村で育った私は、れんげ畑で、幼友達と花の王冠や眼鏡を作って遊んだ。麗らかな筑後平野いっぱいに絨毯のように広がっていたれんげ畑は、春の花の代表だった。れんげ畑は、ふるさとの懐かしい思い出と共に郷愁に駆られる。

稲の切り株は、れんげ畑の肥料となり、蓮華草は稲の肥料となる。互いの優しい贈り物、幸せなふたつの物語。共生。春のれんげ畑、秋の黄金色の稲穂は、笑顔に溢れている。

春から夏の始め10から20センチのピンク色の花は、次第に赤紫色になる。

岐阜県の県花だ。花言葉は、いみじくも「感化」。相手に影響を与え、行いを変える。二度とない人生。今日を生きたら明日は、今日が過去になる。あなたと笑顔で、一度きりの命を、共生関係で生きている。

 

この広い世界の中で巡り会えた

  あなたと笑顔で、今日を生き

誰も知らない、誰にも見えない明日を生きる

出会った者が、助け合い、尽くしあい

誰にも見えない明日を生きて

人は皆、もたれ支えあってこそ「人」

 

5月に入って第9波が懸念されるコロナ禍。手軽なコミュニケーションツールであるメール取材。メル友に励まされ、教えられる私。

♪ w()ith you smile(ウイズ・ユー・スマイル) ♪

 

 

※注釈 With you smile「あなたに笑顔を」作詞 水本 誠・英美 

作曲 水本 誠

※写真展のお知らせ

前期 5月29日から6月9日

後期 6月12日から6月23日

「西山田ふらっとサロン」で月曜日から金曜日(午前10時から午後⒋時)

山田西⒉―4(山田西ショッピングタウン内)スーパーマーケット「デイリーカナート」前。

電話番号6836―7464番

※「写楽22」会長 西條親来氏や、会員の写真を展示。

 

 

 

千人針

                         掲載 令和5年5月

 

                             北風 閑太郎

 

 最近、幼い日の出来事が鮮明に甦って来ることがある。85歳、老化の兆しであるか。

 あの季節は海鳥が数羽餌を求めて低く飛び回っていたのを覚えている。昭和17年の6月頃の記憶である。私は5歳でまだ未就学。神戸市の須磨に住んでいた。近所に子供がいなくて幼稚園が休みの日は一人で遊んでいた。

 家の前の坂道を三輪車で下り、山陽電鉄の駅を越え、国鉄の須磨駅に行くのが楽しみだった。駅は目の前が浜辺だ。

 駅前にはいつも3人ぐらいのおばさんが立っていた。いずれも地味な和服姿で肩までの白いエプロンを着ていた。人は2、3日おきに変わったが姿は皆似ていた。3人とも手には赤い糸を通した縫い針と折畳んだ厚い白布を持っていた。人が通るたびに、

「どうぞ、ひと針お願いします」と頭を下げていた。暗い表情で、私のような幼児が目前を三輪車で走り回っていても見向きもしなかった。

 家に帰って、母に聞くと、

「あれはな、千人針ちゅうもんや。お父さんや息子が徴兵という国の命令で戦争に行く時、身に着けていると千人の力を得て無事に帰って来られると言われているのや。千人は無理でも、例え10人でも20人でもいいからひと針ずつ縫ってもらってお守りにするものや」

 

 昭和17年(1942)は日本軍がガダルカナル島に上陸後、海上補給路を断たれて撤退し、兵士の徴兵も年齢の広い範囲にわたってきていた。当時の食料自給率が40%程度だった日本は、韓国や中国からの海上輸送が米軍の潜水艦や航空機で脅かされ始め食料事情は悪化していた。6月のミッドウェー海戦で日本海軍が大敗し敗色が濃厚になってきた頃である。

 母からよく聞かされた話がある

「夜寝ていると玄関の戸をトントンとたたかれる。こんな夜中に、誰かな、と思いながら、外へ出てみると誰もおらん。いたずらや、と思いまた寝てしまうねん。そしたらあくる日、戦死の公報が届くんやって。そしてあの、トントンは息子や主人が私に別れを告げに来てれたんやと思い、悲して悲しくてつらい思いをするそうな」

 

私は母の話を聞いて、おばさんたちの暗い表情の意味が分かってきた。父さんや息子の無事帰還を祈る心と大事な人を送り出す切ない気持ち。可哀そうやな。

翌日、3人の真ん中のおばさんの前に立った。

坊やもひと針、縫ってくれるの?」

 私は恥ずかしくて黙ったまま頷いた。するとエプロン姿のおばさんは笑みを浮かべながら腰をかがめて私の眼の前に針と布を差し出してくれた。私は母親がよく縫物をしていたので針の使い方はわかっている、つもりだった。赤い糸を通したやや太めの縫い針を思い切って、ぐさりと布に通した。途端、おばさんの顔が歪んだ。針が布を通り越して、それを載せていたおばさんの掌を刺したのだ。驚いた私が慌てて針を引き抜くと、布の下の掌には小さな赤い点から血が出ていた。私はおばさんに怒られると思ってすぐに「すみません、ごめんなさい」と言って頭を下げた。

 おばさんは暫く何も言わないでじっと掌を見つめていた。やがて穏やかな笑みを浮かべながら、

「坊や、心配しなくていいのよ。私が血を流したのだから、息子の一郎は血を流さないで無事に帰って来る。きっと、きっとや」と言って目にはいっぱいの涙を浮かべていた。

 

 それから2年程もすると千人針のおばさんたちは少なくなった。敗戦が決定的となりお守りを作る心の余裕も無くなってきたのだろう。

 代わりに増えたのが戦死者の帰還であった。汽車から降り立った兵士10名程が隊列を組んで駅を出てくる。先頭の将校らしき人は抜刀して

縦にした刀身の背を自分の鼻柱に近づけて掲げ、続く兵士と同様に肩からつるした白布には木製の小箱が入り腰に巻きつかせてあった。遺骨である。

 駅頭の総ての人は駅員を含め、頭を深々と下げていた。手を合わせていた人もいる。あの遺骨は役所を通じて各遺族に届けられるのだろう。千人針が行われていたころにはまだ少し残されていた「希望」が去り、しめやかな「鎮魂」の風景となっていた。

 私たちも須磨の家を空襲で罹災し父親の実家のある京都に転宅していた。

 終戦を経て私が入学したのは京都の市立近衛中学だった。その頃から学者であった父の影響もあって、私は読書が大好きになった。勿論スマホやテレビさえない時代だったからだろう。私は父の学術書を除き、家中の書籍を手あたり次第読み始めた。

 ある日姉の大きな書棚から引っ張り出したのは、忘れもしない「三好達治詩集」だった。頁を繰るうちにふと目に留まったのが生涯忘れられ

なくなったあの詩編「おんたまを故山に迎ふ」だ。

 

「ふたつなき祖国のためと」で始まる七連の長編詩。

 昭和13年の作品。中国大陸から国のため命を捧げ遺骨となって帰還してきた幼馴染を悼む詩。神戸で惨憺たる米軍の空襲の跡地をみてきた私には胸に差し込む哀しみを感じていた。全編を記憶していた。特に終節の五行は今も脳裏を去らない。

 

  ふたつなき祖国のためと

  ふたつなき命のみかは

  妻も子もうからもすてて  (うから 血縁関係の人の総称)

  いでまししかのつはものは

  しるしばかりの おん骨はかへりたまひぬ

 

 

 あれから八十有余年。私は曇天の空の下を低く飛び回っていた海鳥と潮騒の音、そしてあの失敗の赤い点を忘れる事はない。一郎さん、無事だったか。

 

 

故郷の野菊

令和4年提出                            掲載 令和5年4月

             

                          ひろせ まさひと

 

十数年前の初夏の頃、幼なじみでもあった親友の法事の集まりと、母の墓参りを兼ねて帰省しました。

3人の子どもも小さい頃はいつも一緒に里帰りをしていましたが、大きくなり、それぞれ家庭を持ち独立をしていて、家内との2人旅となりました。

母の実家は大分市内から車で1時間位の、当時は大野郡(おおのぐん)千歳村(ちとせむら)にあり今は豊後(ぶんご)大野市と呼ばれています。

母は私を出産後、3時間足らずで亡くなり、葬儀も母方の父母の願いにより母の実家で行われ、遺骨は隣のお寺のお墓に葬られました。

そののち昭和43年父が亡くなり、時をして私を育ててくれた金子家の婆ちゃんと叔母も曽孫の顔を見て亡くなりました。その時に亡き母の位牌を実家より頂き、今は、みんな我が家にお祀りしています。 

先の戦争も末期の小学3年生の頃は、母の実家に疎開をしていました。叔父さんや叔母さんがいて、爺ちゃん、婆ちゃんが居ます。従姉妹も大勢いる大家族で、里のみんなにはとってもかわいがってもらった数々の思い出があります。

その頃は、隣のお寺の、住職さんの息子さんと私は同じ年で、2人でよくいたずらをして遊び叱られたものです。当時の遊びと言えば食べ物の少ない時代の事ですから食べられる木の実や草の実を探すことでした。田んぼの畦道を走り回ったり、桑の実やグミの実をとったり。柿の実をとろうとして木から落ちたときは、婆ちゃんにこっぴどく𠮟られたものでした。

今回の帰省では、母の実家のお墓とお寺にお参りをして、仏壇にもお参りをしました。隣のお寺の一緒に遊んだ同級の友は住職となっています。

実家近くの小高い丘の上には村の氏神様を祀る小さな神社があり、その周囲には四季折々に草花が咲き、せせらぎはいつも絶えることなく、秋には穂を垂れた稲田が一面に広がっていました。その景色はほとんど変わっていませんでした。

神社の境内には神楽殿があり、秋祭りに奉納される神楽を見て、小さいながらもそれを勇壮に思いました。

今になって思うのは、あの秋祭りの神楽が鮮やかな思い出として私の小さな胸に刻まれていたことです。

〈あのおごそかで不思議な雰囲気の神楽を、戦時中であったにも関わらず村人は皆とても楽しんでいた。あれは一体何だったのだろう〉

そんな素朴な思いから、旧千歳村の秋祭りの神楽について調べると、次のようなことが分かりました。

 「大野郡あたりの神楽は鎌倉時代より続き五穀豊穣、家内安全などを祈念し、神前に奉納されたものであった。里山に鎮座する氏神は年に一度(いちど)神輿(みこし)に乗って里に下り、ここで里の人と対面する。里人は酒宴を開いて年に一度の氏神との対面を喜んだ。神楽はこの喜びの宴の余興として欠かせないものであった」

 

さらに豊後大野市のホームページによれば大野市内には、今も多くの神社で神楽が奉納され、御岳(おんだけ)神楽は平成19年国の重要無形民俗文化財に指定されています。

〈母も幼いころ、この神楽を楽しんだのだろうな。誰と見たのだろう。母はどのような子どもだったのだろう〉

神楽殿のもう一つの思い出は、戦時中に近所の小学生が集まり「戦時の出前教室」があったことです。但し勉強をしたという記憶はあまりありません。

先生をはじめ生徒たちの顔は思い出せませんが、集まって騒いだことは懐かしい思い出のひとつです。

家内を連れての大野神社詣では初めてです。石段を下りた畑の周囲のあぜ道には野菊が一面に芽吹いていました。家内はその野菊の芽を見つけ5~6本くらい根っこから抜きとって、水を含ませたティッシュペーパーでくるみ持ち帰りました。そしてその苗を吹田の我が家であるマンションの庭のひとすみに植えたのです。その野菊の株は年々増えて群生し、秋になると数え切れないほどの花を咲かせるまでに育ってくれました。

庭に咲いた野菊の花を見て、昔、祖母から渡された一枚の写真を思い出しました。まだ十代らしき母は着物を着て優しく微笑んでいました。その背後には小さい薄紫の花が沢山咲いていたのです。あの野菊の花です。

私の誕生日は11月、母の命日も同じ日です。その頃には優しい薄紫の野菊の花がいっぱい咲きます。大野郡の実家から一緒に来た薄紫の野菊の花は、母の化身ではないでしょうか。私や家内、孫や曾孫たちを、いつも見守ってくれています……。

 

もてなし料理

令和4年1月提出                              掲載 令和5年3

 

                                     足立ローズ

 

 以前より私は、外食よりも手作り料理が好きでした。添加物の少ない食材を選び、栄養を重視するほうです。40年ほど前、新聞にベターホーム協会が主催する料理教室の情報が載っているのを見て、家族に相談して月1回、4歳と2歳の子どもを連れて2年間、梅田の教室に通いました。

 パンとケーキのコースがあり、家族全員パンが好きなので、先ずはパンのコースから始めました。その頃、我が家の台所にはパン作りに適したオーブンがなかったので、パンの発酵にずいぶん苦労しました。

 ソフトボールくらいの大きさのパン生地をボールに入れて、それを30度前後に保たなければなりません。大きな鍋に湯を張り、そこにパン生地の入ったボールを丸ごと入れます。適温を保つために、市役所から配布されたポリ袋で鍋を覆い、調理用の温度計を使って、蒸し風呂状態を保つのがひと苦労でした。

 その状態を保つと、60分から90分後にパン生地は3倍ほどに膨れ上がります。ここで真白でフワフワなパン生地に、フィン(注釈)ガーテストを行います。これは、パンの発酵状態を確認する方法で、指を差し込んだパン生地の穴が、元に戻ってしまわなければ出来上がりなのです。

 最初の講習会でバターロールを作りました。次の日曜の朝、私は10時頃から準備して、焼き上がったのは12時過ぎ。何とか昼食に間に合いました。バターの香りが部屋いっぱいに広がり、私たち家族がそろって焼きたてのパンを食べたこの日は、至福な日曜日となりました。

 その何時間か後、残ったパンを食べようとしましたが直ぐに硬くなり、これが、「無添加の証」だと分かりました。

 バターロールの後は、三つ編みパン、ブリオッシュ、食パンなど、毎回が新しい挑戦です。その中でも、ピッツァ作りはとても楽しい経験でした。1

年間で約10種類のパン作りをしましたが、ピッツァは家で最もよく作ったパンの一つです。繰り返し作るうちに、それは私の自慢のもてなし料理の一つになり、味を左右するソース作りには特に力が入りました。ベーコン、玉ねぎ、にんにくをみじん切りにして十分炒め、トマトピューレ、砂糖、塩で味付けしました。後に、留学生のウエルカム・パーティーや、来客をもてなす時にはよく作ったものです。

 パンコース終了後は、お菓子コースに進みました。シュークリーム、ババロア、クッキーなど。これらを家で何度も作っていると、子ども達の大好きなおやつとなりました。

「ただいまー。あっ、今日はクッキーや!」

 お菓子を焼くと香りは家中に広がりますから、子ども達は玄関に入るとすぐにその日のおやつを当ててしまいます。2人の息子はクッキーが大好きで、近所の友達も来ますから、大量に焼いたクッキーもあっという間になくなってしまいました。

子ども達が中学生になった頃、我が家を建て直すことになりました。台所の使い勝手が便利になり、調理台には色々な機能を兼ね備えたオーブンがやってきました。それは、ボタン一つでパン作りの発酵時間や温度調節のできるスグレモノ。パンやお菓子を焼くのがさらに楽しくなりました。その頃のテキストを開くと、私は和菓子も教わっていて、うぐいす餅、淡雪かん、おはぎも作っていたことを思い出しました。

 

2年間、子ども達と通った教室は大変貴重な体験でした。講習に専念できたのは、ベビーシッターさんがいて、隣の部屋で預かってくださったからです。この経験は、その後の私の料理の大きな力となりました。

今の私は、ホームパーティーの企画が大好きで、気の合った友達を招いて楽しい時間を過ごすのが嬉しく、ピッツァ以外にも、あまりお金をかけずに演出で豪華に見せるのが得意です。

例えば、庭で育てている花や植物を使ったり、器や小鉢を工夫して見栄えのよい料理を作ります。このようなことを色々考えるのは、快感を味わうひと時です。言うまでもなく、手作り料理でもてなし、会話が弾んで盛り上がる時間を共有できる楽しさ、これも快感の一つです。食事会はコロナ禍で公にはできませんでしたが、皆マスクをして楽しみました。

時折、来客を迎えることは、それなりに気配りをし、掃除もしないといけませんが、私にとっては苦痛ではありません。それより、親しい人を迎えて楽しい時間を過ごすことが大きな喜びです。

様々な規制が解かれて、我が家が再び憩いの場になる日がくることを夢見ている私です。

 

 

 

保育園で仕事を始めて

令和4年12月 提出                                                                                                                                                         掲載 令和5年2月

 

                                 福田 壽子

 

 2年前の5月、面接を受けていた保育園から採用の電話があり、あまりの嬉しさに携帯を持ったまま号泣してしまった。年齢的に採用されるかどうか不安で一杯だったからだ。

 そこは、歯科医院の横にある「ハピカ保育園」で、歯科衛生士さんのお子さんを預かる企業型保育園である。0歳児から3歳児まで10人が通園してくる。

 保育士資格を持たない私の仕事は主に、園児が使うトイレや部屋の掃除、園児が使った歯ブラシ、コップの洗浄、おもちゃの洗浄等である。

 先生が忙しい時、「ちょっと園児を見ていて」と頼まれることがあって、その時は絵本を読んだり、おもちゃで遊んだり楽しい時間である。時々園児が走って抱きついて来たりすることがあって、帰宅後もその園児の可愛さを思い出すと頬が緩んでしまう。

 異なる年齢の子どもたちがリズム正しい生活をするためか、皆とても成長が早くて、歩くのも言葉も早いと感じる。昨日までハイハイしていた子が突然歩き出したり、いきなり言葉数が増えたり。何よりも「日本語を喋ってる」と、当たり前のことなのに不思議でならない。また、食事やトイレの躾けが素晴らしいと感心する。

給食は全て、調理の先生の手作りで、アレルギーの園児にも対応されている。先生が先に「頂きます」と声をかけると、園児も一斉に手を合わせて「頂きます」と、昼食が始まる。周りに触発されて苦手なものも完食し、好き嫌いがなくなるようだ。

初めてトイレでおしっこが出た時は皆で手をたたいて大喜びするのだ。すると、喜ばれたことが嬉しいからか、何度か繰り返すうちに自然に出来るようになる。自分が子育てをしていた時は、なかなかおむつが外れず苦心した事を思い出す。だから、子どもにとっても働くお母さんにとっても、保育園に預けるっていいなぁと思った。

 困っていることが一つある。女児の名前がすごく似ているのだ。りのちゃん、りおちゃん、りこちゃん。いとちゃん、いとかちゃん、このかちゃん。顔も似ているので時々間違えて呼んでしまうことがある。すると、子どもがポカーンとするので、「あっ、しまった」と苦笑いしてしまうが、すかさず先生が正しく呼び名を訂正されて、園児は嬉しそうに笑ってくれる。「私ってホントにダメだな」とつくづく思う。

働き始めて半年ほどたった頃、園長先生から「子育て支援員」の資格を取得するように言われた。受講料もテキスト代も全て園側で持ってくださる。こんなに有り難いことはない。コロナ禍だったので対面の授業は受けられず、パソコンを使っての授業となった。保育園の2階で、もう一人の若い調理担当の先生と2人で、パソコンの前で講義を受けるのだが、毎回講義の最後にレポートを提出しなくてはいけないのだ。一文字ずつ打つ手が遅くて時間がかかる。

これではいけないと思った。園長先生にそのことを話すと、携帯からでも受講が出来ると聞き、次回からはスマートフォンを使っての受講となった。これなら普段ラインをしているから何とかついていける。スマホの小さな画面で、週3回、一回3時間位の受講で4ゕ月かかって終了することができ、幼児教育がいかに大切であるかということを学ぶことができた。

 そして、「子育て支援員研修修了証書」を頂いた時は、本当に嬉しかった。これで胸を張って仕事ができると思った。

 保育園では年間行事が沢山あって、節分、ひな祭り、五月の節句、夏祭り、ハロウィン、クリスマス等々。その度に先生方が全て手作りで色々な物を用意される。折り紙やダンボールを使っての作品は本当に素晴らしい出来で、園児に対する愛情が溢れている。常に園児ファーストで細かい配慮に溢れていると、いつも感心する。

 ある時、手ぶらで登園できる保育園の話を記事で読んだ。「保育園の送迎の時の『荷物の多さ』に悩んでいる方が多いのではないでしょうか。荷物のいらない保育園は、全員がハッピーな手ぶら」という内容だった。

 その園では、昼寝用の布団や、オムツ、着替え等一つひとつ問題を解決して、働くお母さんと子どもが向き合う時間を確保できることに尽力されていた。こういう保育園が将来どんどん増えるといいなと思う。

 保育園の先生方は、20代、30代で若くて美人で頭がよくて優しくて、尊敬できる人たちばかりだ。私が一番の年長者で恥ずかしいなと思いながらも、一緒に仕事ができていることに感謝している。

 日本の未来を背負って立つ素晴らしい子どもたちを育てている、お母さん、保育士さん達にエールを送りたい気持ちでいっぱいだ。体が続く限りこの仕事を続けていきたいと思っている。

 

 

 

日本最古の都 飛鳥を歩く

令和4年1218日 提出                                                         掲載 令和51

 

                                                                         八重桜                                    

                                       

「飛鳥は日本の国の始まりです」と新聞で騒がれ、石舞台古墳のこともよく聞いていましたが、訪ねるところまで行っていませんでした。飛鳥フアンのあやさんが、是非ご一緒にと言うことで、令和3年11月17日飛鳥に行きました。

近鉄電車橿原神宮前で下車、あすか巡回の「赤かめバス」に乗り豊浦(とうら)駐車場で下車。飛鳥が一望できる甘樫丘(あまかしのおか)展望台までのぼりました。海抜148メートル。私にすれば大変な山登りでしたが、晴天で二上山(ふたかみやま)もくっきりと見え、その手前右側の少し高くなった畝傍(うねび)山が奈良盆地にすそ野を広げて雄大に居座っているように見えました。甘樫丘から北を望むときれいな三角形の耳成(みみなし)山、少し右を見ると天から降ったと言われている香久(かぐ)山が低く横たわっていました。

 

香久山(かぐやま)は 畝傍(うねび)()しと 耳成(みみなし)と 相争(あいあらそ)ひき 神代(かみよ)より かくにあるらし(いにしえ)も (しか)にあれこそ うつせみも 妻を 争うらしき

                    (中王兄皇子(なかのおおえのおうじ)

                                

畝傍山をめぐって香久山と耳成山が争ったように、今も昔も愛する人を争うのは同じようです。

甘樫丘から見える景色は、田舎の静かな澄んだ空気が漂い大きく深呼吸し、万葉集や百人一首にも詠われている大和三山に魅力を感じました。頂上で出会ったおじいさんが笑顔で、「毎日この山に登っています」と言われた気持ちが解かりました。

そのおじいさんに飛鳥資料館の道を教えてもらって、長閑な田舎道を歩いていると、1400年前の山田道であるという道標があり、古人を偲びながらゆっくりと資料館に向かいました。前庭に大きな噴水の石像(複製)を見つけて、なぜ噴水? と不思議に思い、帰宅後に調べると、噴水は空気圧と水圧を利用して作られていることを知りました。

これは天皇が大陸からの来客をもてなす折、日本の強さや権力を誇示するため、また(まつりごと)においても用いたようです。

飛鳥は、6世紀終わりごろからほぼ百年にわたり都がおかれ、日本という国家が初めて形作られた土地だったことも、ここを訪ねて知ることが出来ました。

資料館のロビーにも最先端の石材加工による石人像の噴水がありました。展示室には、キトラ古墳の内部が再現されて、石室の四方の壁には守り神の四神(しじん)が、天井には星座が描かれているのを見て早く実物を見に行きたいと衝動にかられました。四神の色も天井の星の金も鮮やかに残っていて、感動しました。

我が国、初めての時計は「漏刻」と言う水時計で、サイフォンの原理を利用したもので、5個の漏壺(ろうこ)と呼ばれたボックス様のものが階段状に設置され、上から水を流します。漏壺が水で満たされると下の漏壺へと順に流れ込み、最後に(へい)()という器に水が一杯になると鐘か太鼓のようなものが鳴らされて鐘の音を聞いた役人は仕事などを始めるように人々に告げていたようです。昔の人の観察力と考え方には驚きばかりです。

これを管理するのは天皇であり「時刻」は支配下の役人たちに知らせるものでした。漏刻は数個設置され数人が関わって間違いがないように努めていたようです。これに天体の星をかみ合わせ、時刻を刻んでいたと伝えられています。

日本初のお金も富本銭といい、飛鳥池工房遺跡から見つかりました。

この資料館には世界最古の木造建造物山田寺の東回廊も展示されていました。作ったのは蘇我倉山田(そがくらやまだ)石川麻呂。7世紀初めごろ作られ、粘土層に埋まった形で近年発見されました。東回廊は全長87m。中門、塔、金堂、講堂が南から北に並ぶ、大きな伽藍の寺であったことがわかり古代建築の貴重な資料として保管されています。

ランチは博物館向かいの店で、古代米のお粥と、作り立て熱々のくずもちをバスに乗るため急いでいただきました。しかし、バス停を間違え赤かめバスは行った後で、仕方なく飛鳥寺(あすかでら)まで約2㎞歩きました。強がりではありませんが歩いて良い事もいっぱいあり道路脇に咲いている山茶花や尾花(おばな)、ヘクソカズラなど都会では見ることのできない草花に出会えました。

飛鳥寺は蘇我馬子(そがのうまこ)が発案し、596年推古天皇が創建された日本最初の寺であり、本尊飛鳥大仏も日本最古の仏像です。「奈良の大仏と異なり鼻が高くほっそりした顔立ちは大陸の影響です」と説明がありました。旧伽藍は火災で焼失するも文政9年(1826年)再建されました。

隣にある木製の聖徳太子孝養像は、父用明天皇(ようめいてんのう)の病気回復を願い、太子16歳の時に創建されましたが太子孝養像も火災にあい室町時代に再建されました。

ここでも、バスの時刻が変更されていて石舞台まで歩くことになりました。校外学習の高校生グループに度々会い、「こんにちは」と大きな声で挨拶をしてもらい、私も明るく挨拶を返し、とても気持ち良く故郷(ふるさと)の田舎道を思い出しながら歩きました。

石舞台古墳は7世紀築造と推定される横穴式石室を持つ方形墳です。蘇我馬子の墓と言われて、大きな石の総重量は2300トン。この石をどんな方法で運んで来たのか私は知りたかった。古墳の中へ階段を降りると4畳位の広さはあり、ゆったりと石棺を安置できたと思います。石舞台と言われているのは、昔狐が舞を見せたとか、旅芸人の舞台になったという話から名付けられたようで、今は乗ることは禁止されています。

最後はバスで高松塚古墳に向いました。古墳の中には入れず、ここでは高松塚壁画館でその全容を知ることが出来ます。石室の四方の壁画を模写したものが展示され、原寸大の「石室レプリカ」や服装品のレプリカも見ることが出来ました。この古墳の発見は昭和47年でした。「飛鳥美人」と呼ばれ、その後国宝にも指定された女子群像は教科書にも載って、全国的に有名になりました。また石室の四方には、古墳の被葬者の守り神として空想上の動物四神が描かれていました。

それらは、青龍(せいりゅう)朱雀(すじゃく)白虎(びゃっこ)玄武(げんぶ)とよばれ、後に発掘されたキトラ古墳と多くの共通点を持っています。壁画には男子群像もあり、女子群像(鮮やかな顔料の色彩)が当時は大きな話題に。更に天井には金箔を使った星座も描かれ、それは古代中国の思想に基づくものであることも知りました。

飛鳥を散策見学して、テレビから感じ取れない古代の歴史と空気、そして日本の原点を肌で感じ取ることが出来ました。

飛鳥では今なお、発掘調査が続いています。これまでの研究で明らかになった、古墳をはじめとする遺跡の数々、謎に満ちた石造群、これには大陸文化の影響が色濃く残り、壮大な寺や大きな古墳、石と水を使った建造物からは歴代の天皇たちの熱い思いも伝わってきます。

多くの人が心の故郷としている飛鳥は2024年の世界遺産登録を目指しています。このことも私は、初めて知り、世界遺産に登録され賑やかになる前に、もう一度ゆっくりと飛鳥を楽しみたいと思いました。

 

春の帰省

 

提出 令和4年10月                                 掲載 令和4年12

 

                                                                      佐藤 彩 

 

コロナという得体の知れない感染症のために、3年ぶりの帰省となった。4月半ばのことである。

(てつ)難波(なんば)駅から(かしこ)(じま)行きの特急に乗った。長谷寺(はせでら)を過ぎた辺りからはトンネルが多く、白壁の民家や、美しい新緑の風景は何度もトンネルに遮られた。

 

 トンネルの多き帰省や山笑う

 

鳥羽で下車し、伊勢(いせ)湾フェリーに乗り換えた。実家まであと一時間である。この船に、私はこれまで何十回乗ったこと

だろう。港を出てしばらくすると、船はいつものようにゆったりと揺れ始めた。それは眠りを誘い、それまでの記憶を

をなくしてしまうほど心地よい。船の行先は愛知県みさき。私のふるさとである。

 デッキに出て船の後方を振り返ると、(みお)の彼方に答志島(とうしじま)が見えた。

 

 船旅の心地よき揺れ春霞(はるがすみ)

 

伊良湖岬の港に迎えに来てくれたのは、5歳違いの兄である。キャッスルマン病という、原因不明の病気も少しずつ良くなり、今は義姉と共に庭の畑仕事もできるようになった。兄の今の趣味は、俳句である。

その夜は遅くまで3人で話した。甥や姪のこと、庭で作っている野菜やハーブのこと、子ども達が登った胡桃(くるみ)の木は枯れたけれど、2代目の胡桃がもう1メートルにもなったこと。さくらんぼは今年も沢山実をつけるであろうこと。

私が実家を出て54年が過ぎていた。

 

大阪に帰り、次男に兄夫婦のことを話した。

「伯父さんが会いたがっていたよ。こちらに来たらいいのにって」

 すると、息子は急に顔を上げて言った。

「そうだ。伯父さんに脚のマッサージをしてあげよう。ゴールデンウィークに帰ろう。お母さんも行こうよ」

 そう言って、息子はパソコンですぐに新幹線のチケットを予約してしまった。5月2~3日、1泊の予定である。

 

 5月2日の夕方、この帰省の一番の目的であるマッサージに取り掛かった。息子が兄をしてくれたので、私は義姉を担当した。兄のキャッスルマン病は免疫系の病気で、まだ治りきっていないため、脚や手の関節が固い。そのうえ、日々のケアが十分でないため、筋肉全般も固かった。一時間ほどのマッサージだったが、兄は後日、「膝小僧の形が、くっきりと分かるようになった」と報告してくれたことから、むくみとコリのひどかったことが明らかとなった。

 義姉も首が痛くて後ろに反れないと言っていたが、それも改善した。庭を耕して、野菜畑やハーブ園にする作業を随分頑張ってくれたのだろう。一度のマッサージでも変化があるのだから、時々このケアをしに行く方が良さそうだ、というのが息子と私の結論である。

義姉はこの日の夕食にしゃぶしゃぶを準備してくれていた。テーブルのサニーレタスやイタリアンパセリは庭で採ったばかりの香り高いもの。

「牛肉とイタリアンパセリがよく合うのよ」

 料理好きの義姉は手際よく準備してくれて、テーブルいっぱいの肉類と野菜は、1時間ほどで私達4人の胃の中に消えてしまった。

 

 翌朝は、兄夫婦が毎朝しているというウォーキングに同行した。(うぐいす)が鳴いている。元気な声で、何羽かが競っているようにも聞こえる。兄が言った。

「お互いに縄張りを主張しているんだよ」

 私たちが近づくと鶯は、

「キョキョキョ」

 と大きな声を発して、慌てて飛んでいく。

 

  畏怖(いふ)の声残し鶯飛びゆけり

 

 山裾の道を歩くと、山の反対側には畑や温室が広がっているが、その先はもう海である。雲一つなく晴れ渡り、水平線は丸いカーブを描き、地球が丸いことを私たちに教えてくれる。兄が水平線を指さして言った。

「ほら、タンカーが来たよ」

 それは私が幼い頃から幾度となく見た光景である。外国からやって来たタンカーが突然水平線に現れ、こちらに向かってくる。行先は名古屋湾であろう。

 

  薫風(くんぷう)や船現るる水平線

 

 ふと見上げると鳥が飛んでいた。(からす)ではない。羽を広げているので、(とんび)かと思っていると兄が言った。

「あれは、ノスリだな。(たか)の一種だよ」

 よく見ると、もう一羽いて、楽しく遊んでいるように見える。鷹の中でも小型なのだろう。お腹の色は茶色っぽいグレーだ。どんな顔をしているのだろう。

 

  天空に(むつ)む鳥あり青葉風

 

道は木立のトンネルへと続いた。兄はずっと、息子と私に植物の説明をし、義姉は野草の花の写真を撮っている。息をつめて撮る義姉の写真は、とても美しい。

道の下方に小さな流れが見える所に来ると、また兄の声がした。

「川の向こうに小さな石垣が見えるだろう?あれは『(かく)()』の名残だよ。江戸時代、この辺りの農民は刈り取った米のほとんどを年貢米として差し出さなくてはならなかったんだ。それで、こんな奥まった所にこっそりと田圃を作ったらしいよ」

 

  山間(やまあい)に隠し田二枚川とんぼ

 

ウォーキングの終点は小さな池だ。その昔、農業用に作られた池のようだが、水辺にはカワラフジノキが黄色の愛らしい花をつけていた。いつも電話で兄が話してくれる池をついに見ることができて、胸が高鳴った。

「毎年秋になると渡り鳥のホシハジロがやって来る。北方から、何千キロと飛んで来るんだよ。僕たちが近寄っても怖がらずに、羽ばたきしたり、潜ったりして見せつけている。雄の目が赤くて可愛いんだ」

 兄夫婦のホシハジロ愛は大変なもので、兄は俳句に詠んだり、私への手紙には義姉の撮った写真が添えられていた。毎年10月から11月頃渡ってきて、3月か4月には北へ帰っていくようだ。

「北方ってロシア?」

 私がそう聞くと兄は言った。

「うーん、ロシアか、あるいはその近くの国だろうね」

 兄夫婦は熱心なクリスチャンである。北へ帰っていくホシハジロにきっと、平和の祈りを託したことであろう。

 

  悲惨な戦争が早く終わりますように

   地球上のすべての生き物が、平和に暮らせますように

 

主人と戦国武将

提出 令和48月                               掲載令和4年11

 

                                岩崎 秀泉

 

学生時代、私は歴史にあまり興味がなかった。

結婚して子供が小学生になり時間的余裕が出来たころ、以前母が言っていた山岡荘八の「徳川家康」を読んで感動したという話を思い出した。実家には単行本で26冊本箱にあった様に思う。母から譲り受けたのか、転勤先の尼崎市武庫之荘の我が家の本箱に移動して来ていた。その頃は専業主婦ということもあり、家事の合間に1冊手に取り、読み始めた私は、すっかり嵌まってしまった。

今から40数年も前のことであるから、内容的な記憶は薄いが、大体のアウトラインをつかみ、興奮気味に主人に話した記憶がある。

次に主人も嵌まった。私と違って頭の構造が違う主人の把握ぶりは半端ではなく、あっという間に読破し、その後も寸暇を惜しんで読書三昧に明け暮れた。と言っても転勤族で高度成長期の真っただ中、仕事大好き人間で殆ど仕事に時間を取られる日々、床に就いてから寝る時間を削り読みふけっていた。中でも司馬遼太郎の作品に対する取り組みは目を見張るものがあった。

彼が次々と出版する本を、店頭に買いに走るのは私の仕事となった。次の出版物が待てない時は、「坂の上の雲」を繰り返し読み、諳んじているのでは?と思ったほどである。

講演会も主人に連れられて聞きにいった。その後も主人は多岐にわたり本という本を読み漁った。読む本が手元に不足しているときは、本箱の隅にある百科辞典まで読んでいた。おかげで物知りになり、道に咲く野草の名前まで覚え、「歩く百科辞典」と渾名をつけた。

短気ではあるが私にないものを沢山持っていた主人は、私の師匠的存在であった。私の夢の一つに、歳を重ね主人が定年になったら、鎌倉の町でも散策しながら「物知り博士」から色々な説明を聞くのも加わった。その主人は散策する約束を果たさず、大学生と高校生に成長した子供のことを気にしながら、志半ばであの世に旅立った。44歳、膵臓癌だった。とりわけお酒が好きでまた、ゴルフ、麻雀、野球、盆栽(さつき他百鉢くらい、所有)、読書、参詣、料理等多趣味で何でも器用にこなし、短い間に人の一生分をやり遂げた気もする。その分、義理の母は104歳まで長生きし、神様が帳尻を合わせてくださったのかなと感謝する。

 

当時、漠然と「鎌倉」の町を想像して心に留め、主人に散策の話をしていたが、今、大河ドラマで「鎌倉ブーム」になり、夢を思い出し毎週見ている。私も最近主人ほどではないが、歴史物に手がいくようになった。それを知ってか、娘は孫の性格を公家さんタイプと武将タイプに分けて説明してくれる。物静かに考え、戦わずして勝つのは公家さんタイプ、やんちゃがかった孫は、武将タイプだと。行動派で武将タイプの主人もあの世で微笑んでいるかも?と思いながら話をきく。                                      

戦国時代の本を読んでいると、不自由な時代なのに情報網の速度と精度、命を懸けた伝達に驚く。情報収集の大切さは現代も変わってない様に思うが、情熱は戦国時代に負ける気がする。

 

最近、安倍龍太郎(あべりゅうたろう)の「家康」を読んだ。本能寺の変のページを読み、目から鱗が落ちた。

信長は天下統一の総仕上げとして、「将軍就任と西国征伐」を考え、正親町天皇(おおぎまちてんのう)を譲位させ、誠仁親王(さねひとしんのう)を天皇に、その子息五の宮を皇太子につかせ、信長が義理の父として、太上天皇に位置づき、新しい制度を作り上げ、それが軌道に乗れば権限を帝に引き渡して身を引こうと考えていた。新しい国を築くための一時的な事で、やがてはご即位なされた五の宮さまに権限を返すと考えていた。

明智光秀(あけちみつひで)は若い頃、将軍義輝(よしてる)に仕え幕府再興のため奔走し、弟の足利義昭(あしかがよしあき)の直臣として、信長の最も信頼する重臣へと大出世した武将であり、信長に義昭を引き合わせ、上洛に協力させた功労者である。しかし、心の内では信長のやり方に反発していた事は容易に想像出来る。それもあって太政大臣と将軍から挙兵を迫られ、身命を賭して応じる決意をする。

信長が太上天皇(上皇)に就任して朝廷が乗っ取られるばかりか、制度として幕府が滅亡することに耐えられなくなり、信長への将軍宣下を口実におびき出し、本能寺に逗留しているところを討った。信長に対して将軍任官の為に上洛するように仕向けたのは近衛前久(このえさきひさ)である。信長の誠の敵は、前関白、近衛前久という。彼は、朝廷を守るためなら何でもやる妖怪のような曲者。朝廷は長年武家の争いには、かかわらない方針をとっていたのに前久はその定めを破った

信長はまんまとこの罠にはまり、少数の供回りを伴って上洛するという人生最大の過ちをおかし、本能寺の変に繋がっていく。

誠仁親王(さねひとしんのう)がご即位された後に本能寺の変に関わっておられたなら朝廷にとって由々しき事、それが事実なら帝が信長を討たせたことになる。

もっと驚いたことには、この歴史的事件が起こることを、秀吉は知っていたという。

光秀と前久公の連絡係が吉田兼和(よしだかねかず)細川藤孝(ほそかわふじたか)細川忠興(ほそかわただおき)の父)が吉田兼和から聞き出し、秀吉の懐刀、軍師でもある黒田官兵衛(くろだかんべえ)に情報を流していたという。彼は熱心なキリシタン。密偵があちこちにいた。

イエズス会には50万人の信者がいたという。高山(たかやま)右近(うこん)をはじめとして、信者からの情報は黒田官兵衛に集まる。彼は秀吉に天下をとらせようとしていた。まるで信長が討たれるのを待っていたかのように。

秀吉は備中にいながらその一部始終をみていた。中国大返しが出来たのも分かる気がする。狐とタヌキの化かしあいを感じる。イエズス会が張り巡らせたキリシタン情報のもたらす勝利かとも思う。

超人秀吉の想定内に、いざという時は、長浜城を手放すよう家中に指示していた。足利義昭に近い京極(きょうごく)氏が長浜城を乗っ取った。

「主君を戒めるも武士の務め」「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」で仕える黒田官兵衛は、私の好きな武将のひとりでもある。

 

徳川家康(とくがわいえやす)桶狭間(おけはざま)の戦いの後、死のうと考えていたが、「皆が安心して暮らせる世を作る事をやってみようともしないで、諦めるのは卑怯者」と登誉上人(とうよしょうにん)に諫められ厭離穢土欣求浄土(えんりえどごんぐじょうど)を掲げ立ち上がった。家康といえば、本多正信(ほんだまさのぶ)を思い出す。一旦、家康を裏切りながらも、家康を天下人にした懐刀。家康の晩年の転機はすべて正信の献策といわれる。

小さい頃から人質に取られ、子育てにも苦労し、人の真意を見抜く力を身に着け、武力と経済を上手くコントロールした家康、その苦労が徳となり260年徳川幕府が続いた要因かもと思ったりしている。正信は「権力を持つものが大きい領地を得ることは災いをもたらす」と言って一万石程度しか持たなかったらしい。大名としては最低レベルの領地。

 

毎日の様に報道されるウクライナ情勢や欧米とロシアとの対立、国際関係の緊張状態の様子をみるにつけ、ひとの国を奪う必要はないとつくづくと思う。お隣はお隣であるがいい。正信の「権力を持つものが大きい領地を得ることは災いをもたらす」を学んでほしいと思う。

因みに戦国武将の人気ナンバーファイブは①織田信長(おだのぶなが) ②伊達政宗(だてまさむね) ③徳川(とくがわ)家康(いえやす) ④真田幸村(さなだゆきむら) ⑤豊臣秀吉(とよとみひでよし) らしい

文明科学は進歩したが戦国時代に逆戻りしそうな日々に不安を覚え、「衣食足りて礼節を知る」を今一度思い起こしたい。

今回、筆を執るにあたり「記憶は消える」が「記録は生き続ける」という言葉を思い起こし一念発起した。8月15日は主人の命日、あの世から「浅学菲才」な私を叱咤激励しているように思う。

 

今は主人の好きな司馬遼太郎の「関ケ原」を手にし、読みはじめた。

 

大阪の街を歩いて

 提出 令和4年6月19日                                  掲載 令和4年5月

 

        宮本 吹風

 

 4年前の3月、この日はカメラのニコンの問い合わせと山本能楽堂の予約が目的で出かけた。大阪の街の変貌から建物への感慨が湧き出て来た。ついでに大阪城の梅林を観に行った。西梅田から上本町四丁目へ。そして帰宅後、この日に開店した店へとよく歩いた一日だった。

 家を出て地下鉄で梅田へ行く。駅を出ると阪神デパートの地下売り場は既に客が入っている。地下道を通って大阪駅の西にあるヒルトンプラザ・ウスト・オフィスタワーに行く。

 13階のニコンプラザは10時半から。先客がいたが順番札は3番目。先日ヨドバシカメラでデジカメのバッテリーを購入した。持参したカメラをみて店員は、

型が古いので整合させるために、ニコンのサービスセンターへ行ってください」

と言われてこの日に来てみた。何のことはない。そのまま充電すれば使用可能であった。このタワービルの下は外気に解放された空間と池があり、階段状に植木が並び、係員が手入れをしている。ビル内の空間に自然環境を模したデザインが取り込まれているのはうれしいことである。

私が23歳で大阪へ出て来たころは今のような高層ビルはなく、一番大きな建物は阪神百貨店で、大阪神ビルと呼んでいた。大阪の街の建築物の変貌に感慨もひとしおである。最近のニュースでは梅田の丸ビルは解体されるらしい。私は一級建築士の資格を持っている。建築物の思い出が湧いて来る。

 

建築を学んだころは「機能的なものは美しい」と言われた。しかし、鉄骨またはコンクリートにガラスのデザインはどこか冷めた感がある。いまは合理性のうえにより「安らぎ」が求められているのだ。

学生のころ東京上野のル・コルビュジェの設計で、いま世界文化遺産になっている国立西洋美術館を見に行ったり、オリンピックで開催された丹下健三(たんげけんぞう)の国立代々木競技場の吊り屋根形式のアリーナを模した設計のまね事をしたこともある。アリーナは、いま国の重要文化財になっている。

大阪の建物で外観が美しいと思ったのは、今も御堂筋にある大阪ガスの本社ビル。半円の柱状になった縦のアクセントが建物全体を柔らかく感じさせる。古いレンガ造りの建物は耐震や使い勝手の問題で取り壊され、また建て替えられているが、古き良き建物の保存は大切である。私が26歳のときに勤務していた大林組の神戸支店は、元銀行の赤レンガの2階建ての趣のある建物だった。震災後、解体され今は地下鉄「みなと元町駅」の出入口になっているが、栄町(さかえまち)道路に面したファサード(建物正面)は保存されて残っている。

近代建築を見る機会が少ない中で印象に残るのは、守山(もりやま)市にある佐川(さがわ)美術館。水の上に浮いている白亜の建物は感動的であった。大阪市内で重要文化財の建物に大阪中央公会堂中之島図書館がある。戦災で失った建造物は多くあったと思うが、奈良、京都の文化財が残ったのはアメリカの文化に対する保護意識のお陰と聞いている。

この5月(2022年)の読売新聞の「あすへの考」の欄に、建築物に対する記事があった。フィンランドでは建築物を国の財産と見なして意識を高める教育をしている。日本でも「建築文化」の意識を育てる必要がある。

 世界遺産に登録された日本の建築物は個々の建物である。諸外国では街全体が多く認定されている。日本でも街全体は無理としても、観光用に文化的、美観的にブロックの景観を保護している所があり、次世代へ残して行く必要がある。   

会社での仕事は建築設備に従事し、20代は空調設備、給排水衛生設備の設計や現場管理の業務。以後は見積りや契約業務を主とした。空調設備とトイレ回りは大きく進化した。

 

 地下鉄の東梅田から谷町四丁目に行き、山本能楽堂へ行く。外装の工事中で入り口は和風の格子状の引き戸になっている。入ると照明はなく、ひっそりしている。外からチャイムを鳴らして、前売り券の購入を話す。しばらくして女性が出てきた。

玄関ホールは一般家庭のものより少し広いだけである。大勢の人を収容するのに不思議な感じがする。

「会場へは、ここから靴を脱いで上がるのですか」

「袋をお渡ししますので持って上がってもらいます」

3月25日の公演の演目は「だまされて」。三芸共催の企画は能と文楽と落語の3つの古典芸能が同じ舞台、同じテーマで順に演ずる珍しい催しに興味を持った。昼時になり近くの店で昼食を摂る。

 久し振りの外出、大阪城へ行くことにした。中国人の観光客が多い。大手門の坂から入場する。過去何回か来ているので様子は分っているが、100トンもある石はやはり大きく、当時の労力とそれを可能にした権力の大きさを再認識させられる。

 旧大阪市立博物館がレストランにリニューアルされたので、建物に入ってみた。一階は土産物店で、2、3階がレストラン「ミライザ大阪城」。廊下の両側に個室が並び、広い食堂形式ではなく予約専用の感じである。

 天守閣前の広場ではカナダ人が大道芸をしていた。派手な衣装に奇抜な姿を見せて観客を呼び込み、大道芸を始める。足先に帽子を載せて、上へ放り上げ金髪の頭にうまいこと被る。周りは拍手する。すると、金髪をするっと外したと思うと、何とスキンヘッドであった。板を三角形にして3段に組み、その上に円筒と平板を載せその上に立つ。不安定極まりない。剣を持ってジャグリングを行う。最後に観客の前に帽子を出す。私も少額を中へ入れた。

 天守閣は改装したことで装飾の金色は鮮やか過ぎるほどだ。一段と高い掘りの上に立ち外周の街並みを眺め里山丸に降りる。表示板の説明では、淀君(よどぎみ)秀頼(ひでより)はこの場所で自害したとある。豊臣家の滅亡の歴史を反芻する。

 堀の極楽橋を渡り城外に出ると、鷹を飛ばしている人がいる。笛を吹いて屋根にいる鷹を呼ぶと左腕に舞降りてくる。観衆の前でこれを繰り返す。傍にいるもう一人は頭の上にインコを2羽乗せている。逃げないのだろうか。

 大阪城の梅林は過去2回来ているが、手入れされた樹木の姿や梅林の規模は立派である。既に盛りを過ぎた樹もあったが、満開の白梅も多くあった。不思議と梅の香は感じない。

 

 帰宅後、妻は、

「今日の夕食は新しい店へ寄る予定じゃなかったの」

忘れていた。和食の店「一豊(かずとよ)この日オープンした。野次馬の私は早速行ってみようと話していた。出かけてみたが店は満席。戻ると妻は夕食を済ませており、自分で仕度する。あり合わせのものに酒があればよい。

 「今日はよく歩いた」

こんにちは赤ちゃん

 令和 4年年5月                                 掲載 令和4年9月

 

                                               みやうち けいこ

 

 令和4年3月27日に娘(次女志津佳)が男の子を出産。1週間後に娘と赤ちゃんがわが家にやって来ました。私にとっての初孫です。

「なんとかわいい!」

 あまりにも小さいので思わず、「ちいさい!」という言葉が口を衝いて出ました。そして〈4人の娘たちも出産した時は、こんなに小さかったのかしら?〉と、その頃の記憶がかなり曖昧なことに気がつきました。

「おばあちゃんですよ」

 と抱っこした時は、ずっしりと尊い命の重さを感じ、目頭が熱くなりました。

 娘は退院後すぐ我が家に来たのですが、新米母さんと赤ちゃんとの同居は大変です。3時間おきの授乳、沐浴、おむつ替え。私の生活も一変し、一日が、あっという間に終わります。

 童謡の「げんこつ山のたぬきさん、おっぱいのんでねんねして、だっこしておんぶして、またあした」毎日がこんな状態なので、よくできた歌だなあと感心してしまいます。

 泣きわめく時、抱っこすると一瞬泣き止み私を見るのです。〈お母さんじゃないみたい〉とでも言いたげな目で。

小さいお顔に、ちゃんと小さい目、口、鼻、眉毛、まつ毛がついていて、時々ニコッと笑うので、私も笑顔になり心が和み、疲れが吹き飛んでしまいます。授乳の時は、目をカッと見開き、一心不乱。誰にも教わっていないのにゴクゴクと吸う力の強いこと。本能なのでしょうが、生きようと頑張っている姿に感動し愛しくなります。

 

 娘と孫の世話をしていると、39年前の懐かしい思い出がよみがえります。私が長女を出産し、実家の世話になっていた頃、サラリーマンの父は会社から帰って来ると、赤ちゃんのそばに横になり、ずっと孫を眺めていました。専業主婦の母は、祖母の介護もしていて大量の洗濯物に埋もれていました。赤ちゃんの沐浴の時は部屋を暖かくしてくれて、ベビーバスにお湯を張り、危なげな手つきの私を助けてくれました。

 今更ながら両親や家族に支えられていたのだと感謝の気持ちで胸が一杯になります。両親がもう少し長生きしていたら、曾孫の誕生を一緒に喜ぶことができたのに……と、残念でなりません。

 ひょっとしたら父は淋しそうにしている私を励まそうと、男の子をプレゼントしてくれたのかも知れません。そして母もきっと遠くから見守ってくれているに違いありません。

「おとうさん、おかあさん、ありがとう。私は今、とても幸せですよ」

 

 赤ちゃんは生後40日になりますが、順調に成長しています。春生まれの男の子で、生命力あふれる子に育って欲しいと「伊吹」と名付けられました。命名式では、いきがい教室の「硬筆書写」で筆ペンを学んだ私が命名書に「伊吹」と記し、お宮参りは娘の自宅近くの芦屋神社へ参拝しました。

 あと、2週間程で自宅に戻り、家族3人で生活する予定。子どもを育てることはとても大変で責任のあることだと思いますが、夫婦仲良く、楽しく助け合いながら、温かい家庭を築いて行って欲しいと願っています。

「こんにちは、伊吹くん」

 生まれて来てくれてありがとう。明るく素直にすくすく育ってね。

 私も遠くから見守っていますから。

 

 

 

令和4年・新年の日記より

 提出 令和4年1月                                      掲載 令和4年8月

 

                                                                 金 子 風 香 

 

今年も、コロナ禍の新年を迎えました。昨年の11月初めには収束しかけたコロナが新年を迎え再び感染者が増加し、また引きこもりの生活になることが不安です。

元旦は、近所に住む息子家族が新年の挨拶に来ました。大学生と中学生の孫2人はなによりのお年玉です。

 2日は、朝から近くの神社に主人と2人で初詣に出かけると今年の人出はいつもの半数くらいでした。 午後は次女夫婦が新年の挨拶に来ました。私達2人も次女から毎年お年玉をもらい、祝の膳になります。次女の娘は薬剤師の国家試験勉強のため、来られず、皆で合格を祈りました。

毎年4家族13人が集まりお祝いの膳を囲み、東京に嫁いだ長女の家族3人とは電話でのあいさつで大賑わいですが、ここ何年かはコロナ禍や、孫達の受験勉強のため、家族全員が集まることも少なくなってきています。

次女が突然、

「明日、以前住んでいた河内長野の様子を見に車で行かない?」

と、私達夫婦を誘ってくれました。私達も行きたいと話していたところで、すぐに賛成、嬉しいお正月になりました。

翌日朝、10時に、次女が車で迎えに来てくれました。

河内長野市三日市(みっかいち)の北青葉台は山を切り開いて出来た1000区画の住宅地です。昭和45年、長女は4歳、次女は2歳の時にこの1区画に我が家を持ち移り住みました。

この地で昭和49年1月に、長男が生まれ、その年の7月に主人は、大腸癌になりました。癌を患う前年の昭和48年には、仕事関係の取引会社の勧めもあり吹田市の江阪に、事務所を持ち、独立して仕事をしていた矢先のことでした。

それから3年ほどたち、仕事も忙しくなって河内長野と江坂の通勤には時間もかかるため、主人の体調のことも考え、10年足らず住んだ思い出の我が家を借家にして、江坂に近い緑地公園に住まいを移しました。

河内長野で暮らした日々は子ども達の成長期であり主人の仕事も右肩上がりに順調な時でした。忙しくも充実した毎日で数えきれないほど幸せな思い出を育んだ家です。

その思い出の地を見に行こうと次女が誘ってくれたのです。 

吹田から河内長野へ高野(こうや)街道を通って、まずは三日市の我が家のあった場所に向かいました。今は多くの新興住宅地ができ、高野街道の道路もバイパスが出来て、きれいになっています。三日市駅前にはスーパーマーケットや店舗もでき以前の高野街道が、どの道かわからないくらいです。 

我が家のあった所は別の家族が住んでおられ、その近辺はあまり変わっていないのですが、周りにできた新興住宅地があちこちにあり、たくさんの住宅も立ち並んで、大変開けた街になっていました。

以前の我が家の周りを通ってみました。表札が変わっている家も半数くらいあります。私達の家は少し前に手放しましたが、まだ電話でのお付き合いをしている人もいて懐かしさいっぱいです。 

次女の足が急に止まりました。

「あっ、舞子ちゃんの家や。誰かいたはるかな?」

そう言いながら、次女の手は一番仲良しの家のチャイムを押していました。

でもその家は留守らしく、何の返答もありません。  

「そうか、舞子ちゃんピアノの先生になって東京に行ったと聞いていたなあ、おじちゃんもおばちゃんも、もうここにはいたはれへんのかな」

次女は残念そうに、その家を何度も振り返っていました。

次女が通った小学校を訪れ、幼稚園も尋ねてみました。どちらも古い校舎はすべて建て替えられて新しい校舎になっていましたが、入り口の坂道や運動場は昔のままで、次女にとって懐かしさはひとしおです。 主人と私も娘同様、とても懐かしく、40年前の赤いランドセルの次女の姿を鮮やかに思い出しました。

酒蔵のある高野街道の街並みを探したのですが、それはとうとう見つけられず、少し心残りでした。

近くにある延命寺(えんめいじ)観心寺(かんしんじ)には以前よくお参りをしていましたが、今は新しい道路ができ便利になり、以前お参りしていたときに比べ心なしか近く感じました。

空海が建てた観心寺にお参りする人も今年は少ないようです。コロナのせいでしょうか。私達も観心寺にお参りをして、河内長野駅の近辺を車でぶらり。40年前によく通った懐かしい道路を通り帰路につきました。

河内長野の暮らしを、私たち夫婦が時々懐かしがっているのを、次女はいつも気にかけてくれていたのでしょう。そんな次女のあたたかい気持ちに触れた、とても有意義なお正月でした。

 

高野台慕情37

提出 令和4年4月                              掲載 令和4年7月

 

  2022年卯月 大量殺戮が始まった「殺さないで」     

―桜に蘇る記憶―

                                                                      江藤憲子 

 

3月29日、終の棲家前、高野台水路沿いのソメイヨシノが満開になった。

幸せの青い鳥、カワセミが飛んで来る。夕映えにわが家はピンク色に染まる。樹齢約60年、67本の桜並木の道、花の家だ。春弥生めぐる桜に平和を祈る。

 2022年2月24日、ロシア軍によるウクライナ進撃、大量殺戮が始まった。

 「殺さないで」77年前の母の絶叫が蘇る。 悲惨極まるテレビ画面に目を掩う。犠牲者の多くは子供、女性、高齢者だ。

  九州筑後の空を埋め尽くした敵機に怯え、泣き叫んだ日々を彷彿とさせる。

triangle(トライアングル)のCDを聴き、SMAP(スマップ)と歌う。

 

♪精悍な顔つきで構えた銃は、他でもなく僕らの心に突き付けられている♪

 

  テレビを見るたびに戦場と化したあの日の光景がフラッシュバックする。日本も他国から攻撃の可能性を排除することはできない。他人ごとではない。過去に目を閉ざす者は、現状にも目を閉ざす。

 

  さくらばな とどまらざらむ 

  憲法の恣意解釈のきりぎりに舞ふ  (水原紫苑)

 

断崖に花びらが舞う。憲法9条改憲の断崖に櫻花舞う。国民生活の崩壊を象徴するように。戦争放棄、戦力不保持、国の交戦権不保持の憲法第9条を持つ日本。

2021年6月11日、憲法改正を定める「改正国民投票法」が成立した。驚愕するほど膨らむ防衛費、他国との実弾演習は既に常態化している。

青空に満開の桜を仰ぐ。〈貴様と俺とは同期の桜、同じ兵学校の庭で咲く。咲いた花なら散るのは覚悟、見事散りましょ、国のため〉レコードで聞いた軍歌が蘇る。特攻隊には若櫻隊、初桜隊など、命を差し出させ、美しく散る桜を戦意高揚に利用された。大人も子供も物も戦争一色。

桜は戦争を鼓舞する象徴となり、3百万人以上が犠牲になった。

故郷、山村の墓地には、遺骨なき戦死者、若者の立派な墓が並んだ。77年前の第二次世界大戦の大量殺戮、広島、長崎への原爆投下、無条件降伏。戦争の実態を、2022年再び目の当たりにしている。窮鼠猫を嚙む。

人道に反する究極兵器、核による威嚇にすらロシアは踏み込んでいる。核兵器保持数はアメリカ6685、ロシア6500、中国290、フランス300、北朝鮮20~30。これが使用される時は、人類の滅亡になるだろう。

 

核弾頭秘め宇宙(そら)浮く地球露のいくさ    (憲子)

 

歴史は繰り返す。4月3日現在、和平交渉は進まず、世界大戦の危機も孕んでいる。

 1945年、桜咲く筑後川の河川敷に、米艦載機が墜落、パラシュートで若い米兵が落ちてきた。村人は用意していた竹槍で米兵を刺す。勤務先の学校から帰る途中だった母は絶叫した。 

「殺さないで、殺さないで」

国際法に違反する行為だ。教え子がいた。厳しく周りを制止した。

「吉岡先生たい」(吉岡先生だよ)

殺戮は止まった。母は父に涙声で話していたが、私は隣室で聞いていた。

米兵は、無事故郷に帰っただろうか、そう信じたい。パラシュートでの落下はその後も続いた。生き残りを賭けた熾烈な戦い。犬に追い立てられた猫はライオンのように荒々しくなる。8月6日に広島、9日長崎に原爆投下。8月15日終戦。

一刻も早い停戦を。雨に濡れて美しい櫻花爛漫の高野台水路に祈る。

「高野台慕情29」でも綴った、「きけ、わだつみのこえ」(日本戦没学生の手記)序文の詩、ジャン・タルジュ(1903―95年)フランスの現代詩人の言葉を再発信したい。

 

  死んだ人々は、還ってこない以上 

  生き残った人々は、何が判ればいい

    死んだ人々には、慨く術もない以上

  生き残った人々は、誰のこと

  何を慨いたらいい

  死んだ人々は、もはや黙っていられぬ以上

  生き残った人々は沈黙を守るべきなのか