会員の作文

大仰天発生

                                令和6年11月掲載

 

              江藤 憲子

 

「千里ニュータウンプラザ」5階の「高齢者いきがい活動センター」で「吹田市いきがい教室」が行われていて、私は「朗読教室」第7期生。今年(令和6年)6月4日から22名の皆さんと参加している。

講師は生徒各自が選んだ朗読文のタイトルを聞いて回った。選んだ朗読文は10か月間の教室で、順番に本人が朗読する。「枕草子」、「源氏物語」、宮澤賢治の作品等、名作のオンパレードだ。

「人に褒めらるるは、いみじう嬉しき」。枕草子第百二十九段」後世に遺した清少納言。目の前で「枕草子」を朗読されたら、どんな思いをして聞くのだろうと想像していたら、

吹田(すいた)自分史(じぶんし)の会の本を読んで、万博の仔象の事が書いてあり、感動しました。それを読みます」

と、女性が言う。大仰天だ。私の作文ではないか。感極まり、驚喜。涙がにじむ。「いいね」(ブログの褒める言葉)された作文が朗読されるのだ。朗読教室では生徒の作文は前代未聞だと聞いた。講師が朗読者に私の作文であると話したようだ。

「万博の仔象を書かれた方ですね。5分にまとめてもいいでしょうか」。

笑顔で女性が声を掛けて来た。朗読時間は5分になっている。

「ありがとうございます」

胸が一杯になった。私は「吹田自分史の会」に所属している。会は毎年文集の断片自分史「わが人生の想い出」を発行し、2019年発行の第七集掲載文のタイトルの一つに「ひろば」がある。

「ひろば」は仔象の名前。1970年の旧万博会場広場の草むらで誕生したことで名付けられた。

旧大阪万博は「人類の進歩と調和」をテーマに脚光を浴びた138日間、77か国が参加、116のパビリオンに延べ6422万人が訪れた。象の行進で開幕。

幼い仔象「ひろば」は、やがて母と共に帰路に着く。それは母象と仔象にとって、最後の時間だった。

その後、タイに帰り、幼くして母象と仔象「ひろば」は引き離された。母と引き離された「ひろば」は母親を呼び続け、食事も水も拒否する。母を呼びながら最後は手に負えず殺された「ひろば」。

生き物にとって愛が、どんなに必要か、「ひろば」は教えている。万博の光と

影のターゲットになった仔象の「ひろば」。

セミナーに参加し、「ひろば」の行方を追うドキュメンタリーの映像を見て、仔象の悲劇を知った。挙措(きょそ)を失い涙ながらの文章にした。「いいね」された文章を朗読して頂くことにより、想い出は再び巡ってくる。

 

因みに私の朗読文は、朗読教室の隣に聳え立つ要塞を拙文にした。タイトルは、

「あなたを見守る―吹田市総合防災センター」。38万人の吹田市民を見守り、災害時にはハグ(抱く)する砦だ。

パソコンの前に2つの写真がある。1970年9月3日、北千里駅東側の府道

をタイに向かって帰る母象と「ひろば」の写真。それと西條親来(さいじょうちから)氏撮影の「blue(ブルー) sky(スカイ) rose(ローズ)(写真参照)。見つめながらこの文章を綴っている。

写真はぬけるような青空の下、気高く咲く薔薇。「ひろば」の傍に寄り添う蕾の薔薇。象の親子は幸せそうに触れ合っている。とこしえまで。遥かなるタイで眠る「ひろば」。祈りを込めて供花にしたい。

 

この写真は、今年6月9日から13日まで、「千里ニュータウンプラザ」のロビー展が開催された時の1枚である。第25回「写楽22写真展」。テーマは「薔薇」。伊丹市荒牧(あらまき)バラ公園で撮影とある。西條親来(さいじょうちから)氏のblue(ブルー) sky(スカイ) rose(ローズ)」は美しく、温かく、目頭が熱くなる。

写真展では、多くの人を魅了していて、私の内では母象と仔象「ひろば」の姿に重なった。

17頭の象と共に、1970年8月16日に生まれたばかりの「ひろば」が藤白台3丁目を幼い足取りで歩き、母親が寄り添っていた姿は鮮明だ。

母親と写真に残る最後の時間だった9月3日。「ひろば」は10月3日に朗読された。思わず仔象の悲劇が甦り涙を流した。

毎月、全員が順番に朗読する。教室のフィナーレの日は、感涙にむせぶ事だろう。

 

 

 

 

年末年始は埼玉県で

                                  令和6年10月 掲載

 

                                福田 壽子

 

 昨年の令和5年1227日、埼玉県に住む次女一家と年末年始を過ごすために、新大阪駅から新幹線(のぞみ)に乗って出発した。

 新大阪駅から東京の品川駅まで行き、そこで山手線に乗り換えて池袋まで。池袋から東武東上線で東松山駅下車。そこからは次女の旦那さんが迎えに来てくれた。次女一家は夏休みに家へ遊びに来ていたので、4月ぶりの再会となった。幼稚園の年長さんと年少さんの2人の孫が嬉しそうに私を迎えてくれた。

 翌日の28日は、千葉県松戸市に住む長女一家のところへ。レンタカーを借りて次女一家と私の5人で、2時間かかってやっと着いた。長女は2人の子どもを連れて再婚して5年が経っていたが、一度も家を訪れたことがなく今回が初めての訪問となった。

 一家が住むマンションのすぐ隣に、全メニューに豆乳を使っているヘルシーなお店があり、そこで皆でランチをした。体に優しい食事を頂き会話も弾み写真を撮ったりしてランチが終わった後、少し散歩をしようとうことになり近くの東漸寺(とうぜんじ)へ。ここは、540年の歴史ある浄土宗のお寺だ。参道が真っ直ぐで長い道の途中に、大正15年に渋沢栄一が建立した顕彰碑があった。その石碑の裏に沢山の人名が彫ってあって、

「お寺に寄付をした人の金額が多い順に並んでいる」

と、長女の旦那さんが説明してくれた。前から4番目辺りの名前を指して、

「これは、ドラッグストアで有名なマツモトキヨシさんのお爺さんの名前だと思う」

のお寺のすぐ近くに大きなお屋敷があるらしい。

〈そうなんだ。この松戸市がマツキヨの発祥の地なんだ〉と、感心してしまった。

 長女のマンションに戻り、孫娘2人の部屋を見せてもらったり、フーちゃんとう名前の文鳥がとても大切に飼われているのを見たり、リビングでぎゅうぎゅうに9人が座ってお茶をしたり、和やかなひと時を終えて感じたことは、長女の6歳年下の旦那さんのおかげで、長女や孫達がいかに幸せに暮らせていることか、感謝しかないとうことだった。ここに来て良かったと思いながら家をあとにした。

 30日の土曜日、横浜に住んでいたの友人と再会した。横浜には30代の頃5年間住んでいたのだが、その友人とは家族ぐるみで仲良くしていた。

東松山駅から待ち合わせ場所の京急(けいきゅう)横浜駅まで電車で2時間かかった。30年ぶりとは思えないくらい話が弾み、懐かしい人の名前がどんどん出てきて、タイムスリップしたみたいに当時のことが思い出される。元気でいれば何年たっても会えるんだと思った。たった数時間の会話だったが忘れられない貴重な時間を過ごした。

「また必ず会おうね」

と、握手をして名残惜しい気持ちでわかれた。

31日の日曜日、この日は次女の一家と日帰り温泉へ。彼女は笑顔でこう言った。

「個室の予約が取れたのでゆっくりできるよ」

個室には小さな風呂がついていて、いつでも温泉に入れる。でも私は大浴場の温泉に入った。

泉はやっぱり良い。広い浴槽で手足を伸ばして気持ちがいい。露天風呂やサウナにも入ったりして何度も繰り返しているうちに、湯あたりしてしまった。1年間の垢を落としてついでに、1年間の嫌なことも洗い流してすっきりとした気分になった。夜は、年越し蕎麦を食べて眠りについた。

 令和6年1月1日、年が明けた

毎年、「板前(いたまえ)(だましい)」で取り寄せているお節と、お雑煮を食べて孫たちにお年玉をあげる。昼ごろ、4日前に会った長女が上の娘を連れてやって来た。この孫は大学4年生で春から社会人となる。卒業旅行行った韓国や台湾の話で盛り上がり、これからまだ、ベトナムやスペインに行くという。若いっていいな、羨ましい限りだ。戻れるものなら戻りたいものだ。

 長女達が帰って少し経った午後4時過ぎ、家が大きく揺れた。地震だ。すぐにニュースを見ると、能登半島で最大震度7の大地震だとわかった。日本海側全域に津波警報がずっと出されていた。新年早々に大変なことになったと思った。 翌日の2日、次女と2人でか川越観光に行った。川越駅までは電車で30分程で行ける。駅で降りてバスに乗り終点の氷川(ひかわ)神社(じんじゃ)まで行き、そこから歩いて写真を撮りながら、小江戸蔵里(こえどくらり)(蔵造りの町並み)を散策した。

 川越はサツマイモと鰻が有名で、サツマイモのクッキーを3箱お土産に買った。そして、次女が是非一度入りたいと思っていた「いちのや」とう、鰻で有名なお店で食事をした。

 ここは天保3年、1832年創業の老舗で、有名人の写真や色紙が壁一面に貼られてた。2時間待ってやっと席に着くことが出き、注文したのは一人前4300円の鰻重。味わってゆっくりと食べた。生涯この味は忘れないと思う。

 その日の夕方、「午後6時前、羽田空港でJAL機と海保機が衝突した」とうニュースが入ってきた。CA(シーエー)(キャビンアテンダント))さんの迅速な対応でJAL機の乗客乗員は全員無事だったが、海保機では5名の方が亡くなった。ソラシドエアーで7年間CAをしていた次女は、心配そうにニュースを見ながらJAL機のCAさんの対応に感動して、

「厳しい訓練を受けているから落ち着いた判断で、全員助かったんだ」

と、言っていた。新年に2日続けての暗いニュースだった。

 3日、帰る日がやってきた。朝から荷造りして、ダンボール箱は自宅に送ってもらうことにした。7泊8日お世話になったお礼を言って孫たちと別れを惜しんだ。

「春休みに大阪へ来てね、USJに行こうね」

と、手を振った。

女が新幹線乗り場の品川駅まで送ってくれて、2時間半程であっという間に新大阪駅に着いた。駅では、インバウンドの人たちが大きなスーツケースを持ってごった返していた。出口にたどり着くのにひと苦労して、やっとの思いで改札口を出ることが出来た。こうして無事に自宅へ帰り着き、7泊8日の旅は終わった。久しぶりの長旅だったが充実した楽しい旅だった。

 数日後、夜のダウンタウンの番組で、星座と血液型の両方で今年の運勢を占うというのがあった。48位から順に上がっていくと、なんと私の(双子座A型)が第3位。金運、健康運、仕事運、全て良いのだ。

本当かな、信じていいのかな、素晴らしい一年になるのかなと疑いながらも、

 

〈宝くじが当たるといいな〉と、本気で思った。

 

 

最後の言葉を胸に

                                                       令和6年9月 掲載 

                   

                                                              八重桜

 

弟の好太郎(こうたろう)は、61歳で脳梗塞に罹り半身不随になりました。その2年後腎不全を併発して一人での生活は困難となり、倉敷の故郷を後に息子が住む東京に引越し、老人ホームで暮らすことになりました。

姉妹で東京見物を兼ね、面会に行った時です。

「こぢんまりとして、良いホームに入れてもらったね」

と言うと、

「姉ちゃん、俺はね、世間話やテレビの話がしたいのに、ここの職員は、お茶です。薬ですと、必要最低限の言葉しか話さんで、俺はね、誰かと話をしたいし。聴いてほしいね」

そう話してから、2か月後に逝ってしまいました。

「話をしたい、聴いてほしい」

その言葉は私の頭の片隅に住み着きました。

弟だけではなく、老人ホームへ入所した人や、独り住まいの人は話をしたい、聴いてほしいと思っておられるのではないかと思いながら、過ごしていたところに、地区の公民館の案内状で、傾聴ボランティア講座開催を見つけました。

私の頭の片隅にあった弟の言葉が頭の中で全開になり、〈これだ、傾聴することだ〉と確信したのです。

申し込み日には、受付開始前に公民館に並んで手続きをしました。

傾聴だけで5日間10時間の講座です。どんな話があるのか少し疑問に思いながら、1回目の受講をしました。

自己紹介の後は、吹田市の高齢化率、我が五月が丘の高齢化や一人住まいの現状と進行度を知ると、住民で何とか考え行動を起こさなければ、と思いながら2時間の講座を受けました。面白く、楽しく集中するうち1回目は終わりました。

先生は、吹田市で一番、いや近畿地区で傾聴を広めている第一人者です。どんな人も豊かな人生を過ごして欲しいと願って傾聴ボランティア活動を広めるために講座を開き、活動をされていることも知りました。

傾聴ボランティアは米国で30年前ほど前から高齢者や障がい者の悩み相談から発展したそうです。

人が話すに込める思いをバステックの原則と言い、

①個人として認められたい。(一人の人間としてみて欲しい)

②感情を表に出したい。(喜怒哀楽苦しみを表したい)

③共感して欲しい。(相手の気持ちになって聞く、推測憶測はしない)

④受け止めてもらいたい。(気持ちを無条件で受け止める、助言はしない)

⑤批判・判断・審判されたくない。

⑥自分で選択・決定したい。

⑦自分の秘密を守ってほしい。(聴いた話をみだりに他者に漏らさない)

当たり前のことですが、忘れかけていた大事なことを呼び起こしてもらえる講座でした。

そして、聴くが7割で話すが3割が最適な傾聴と教えてもらいました。出しゃばりな私は7割、話しているのではないかと反省し、これからは、友人と話す時も心がけなければならないと、反省しながら講座を受けました。

何より大事なことは、笑顔・アイコンタクト・頷きを並行させなければならない等、4日間の有意義な講座が終わり、最終日は、高齢者施設の実習に行きました。

かなり重い認知症の方と1時間の傾聴をすることになりました。夢なのか、過去の話か分からない話に頷きは出来ても、話題を拡げるのは難しく9割を聴くになった気がしました。

傾聴では、わずかな話を聞き逃すことなく、それを話題として広げていきます。終わりの時間は、始めに伝えておき、最後の10分間は、その日に聴いた話を復習して、終わらせると講座で受けましたが、実際にやってみると傾聴する難しさに直面しました。

反省会で「9割を聞くになりました」と講師に伝えましたが。

「それでも、いいです、いいです」と言っていただき、安心しました。

その後は、月に一回高齢者施設に傾聴訪問しています。戦前の子供時代のことを昨日のことのように楽しそうに話す高齢者に、笑顔・アイコンタクト・頷いて、ボランティア活動が終わります。帰路につくと、講座を受講し行動できる自分と、出来る場所に感謝して晴れ晴れとした気持です。

弟の残した言葉「誰かと話をしたい。聴いてほしい」を胸に、これからも傾聴ボランティア活動に少しだけ関わりを持ちたいと思います。

 

 

古代史の旅③ 3世紀の遺跡

                                          令和6年8月掲載

 

                                    佐藤 彩

 

友人と桜井(さくらい)市にある遺跡を訪ねたのは、令和6年5月24日。暑い日であった。

桜井市は、奈良市の南約20㎞に位置している。この二つの町を結ぶ道は古くから「(やま)()の道」と呼ばれる日本最古の官道(国道)の一つだ。その沿道には多くの古墳をはじめ古い寺社が存在し、私はその地を訪れる度に輝かしい古代文化に触れることができた。

桜井市には街道の他にもわが国最古と呼ばれるものがある。一つは大神(おおみわ)神社。祭神は大物主大神(おおものぬしのおおかみ)で、ご神体は三輪(みわ)山そのものだ。もう一つは最古の市場、海柘榴市(つばいち)で、遠方からのヒトやモノがこの地に集まり、大変な賑わいを見せたと伝わる。

今回注目した遺跡の一つは纏向(まきむく)遺跡である。平成21年、纏向遺跡に3世紀前半から中頃の建物群が発見されると、この遺跡近くにある箸墓(はしはか)古墳との関連が俄かにクローズアップされた。箸墓古墳は宮内庁の管轄下にあるため、一般的な学術調査が禁止されている古墳である。古墳に眠っている人物を宮内庁は、(こう)(れい)天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)としているが、一部の人は「卑弥呼(ひみこ)の墓では?」と言い、邪馬台国(やまたいこく)近畿説を唱える人の中にはそれを固く信じている人もいるほどだ。

 

「古代史の謎を探るには、まず出土品を見ようよ」

ということになり、友人と私は桜井市立埋蔵文化財センターを訪ねた。

JR三輪駅で降りて、北に向かって15分ほど歩いた。そこには弥生時代から古墳時代までの墳墓(ふんぼ)などから発掘された、数多くの出土品が展示されていた。銅鏡、鉄器、土器、勾玉(まがたま)やガラスの装飾品、埴輪、馬具など、古墳の主が大王級の高貴な人物であることが容易に想像できた。木棺、人骨などの陳列もあった。

以前、新聞で目にした記事には、発見された大量の桃の種は祭祀に使われたのでは? と書かれていたが、粘土層に埋まっていたのであろうか、種がそのままの形を保っていた。ここでふと思い出したのが司馬遼太郎の、『街道をゆく 近江散歩・奈良散歩』の一節である。

「記紀に、死んで黄泉国(よみのくに)に入った女神の伊邪那美命(いざなみのみこと)を、現世にいる男神の伊邪那(いざな)岐命(ぎのみこと)が訪ねてゆく話がある。死の国にいる女神は『わが姿をみるな』といったのに、男神は禁を犯して見てしまう。怒った女神は配下の者たちに男神を追わせる。男神は逃げつつ、現世への出入口まで来たとき、そこにあった桃の実三つをとって、追いすがる悪霊どもに投げつけると、みな退散した。桃に魔よけの呪術力(じゅじゅつりょく)があるというのは、本来、中国の古代思想である」

最古と言われる木製のお面はどんな呪術に使われたのであろう。こうした1500年以上も前の文化財を目にして、感動しない人はいないと思う。館内を行ったり来たりしながら、出土品についてもう少し詳しい説明が欲しいと思った。

 

次に向かったのは(はし)(はか)古墳である。埋蔵文化財センターの職員さんに道を聞くと、「途中、表示はあまりありません」と申し訳なさそうに言う。方角だけを聞き、歩くこと20分。こんもりとした古墳らしきものを見つけた。近づくと、白い鳥居の前に、「大市墓(おおちのはか) 宮内庁」という標識があった。箸墓古墳に間違いない。しかし、周濠(しゅうごう)がない。以前来た時は古墳の前に満々と水を湛えた(ほり)があったのに。古墳に沿って歩いて行くと池が見えた。古墳は濠に取り囲まれているとばかり思っていたが、もともと古墳の周りにめぐらされた周濠は長い時を経て、一部だけが残り、池となって古墳に接していたのだ。

1700年前の前方後円墳である。全長276m。この時代では最大とされている。その姿を池に映して、新緑の古墳は堂々とした姿を現した。

 

この日はかなり暑かった。途中で三輪そうめんの昼食を摂った時に座っただけなので、「暑いね。疲れたね」と言いながら、次の纏向遺跡を目指した。道路には相変わらず、何の表示もない。20分ほど北上するとJR巻向(まきむく)駅に着いた。電車は1時間に1本しか走っていない。駅の地図を見ると、纏向遺跡はあまり遠くないように思えた。埋蔵文化財センターでもらったパンフレットによれば、纏向遺跡は発掘後に埋め戻されて、そこには何の建造物もないようである。ただ、遺跡を示す立て札が立てられているらしい。それでもやはり、それを確かめようと話し合い、地図の示す方向に歩き始めた。次の電車が来るまでの時間は40分である。

20分間、急ぎ足で歩いた。しかし何の表示もなく、畑と少しの人家があるだけである。時間切れである。仕方なく駅に戻った。

 

電車に乗り、三輪駅まで戻った。巻向から三輪まではほんの一駅で、最後に訪れたのは大神神社である。

大神神社はわが国最古の神社のひとつである。「ひとつ」というのは、全国には他にも「最古」とされる神社があるからだ。それは、伊勢神宮、諏訪大社(すわたいしゃ)など。これも古代史の謎のひとつである。

この神社の祭神は大物主大神。祭神が山に鎮まることから本殿はなく、拝殿の奥にある三ツ鳥居(みつとりい)を通して三輪山を拝するという原初の神祀りを今に伝えている。

最初の鳥居をくぐると長い参道が続く。玉砂利を踏む音が静かな境内に響く。見上げれば樹高の高い木々が生い茂り、長い歴史を感じさせる。階段を上りつめ、見上げると注連縄(しめなわ)が張られていた。それをくぐると拝殿に至る広場があった。拝殿では、一日の旅が無事に終わろうとしていることへの感謝と、地球上のすべての戦争が一日も早く終わることを祈った。

 

帰りの電車の中で色々思いを巡らせた。私が吉野ケ里(よしのがり)遺跡を訪ねたのは丁度一年前である。そこでは弥生時代のクニの迫力に圧倒された。()()()人伝(じんでん)に記されていたような大きな環壕(かんごう)集落が発見され、多くの王墓が発掘された時のまま保存されていた。復元された「楼観(ろうかん)宮室(きゅうしつ)城柵(じょうさく)」も魏志倭人伝と同じである。三層二階建て高床建物の「主祭殿」では王族や支配層の会合、また巫女の祭祀が再現されていた。吉野ケ里遺跡が邪馬台国そのものではないであろう。しかし、このような遺跡が北九州には多いのだ。私はやはり、邪馬台国は北九州にあったような気がしてならない。

 

近畿地方でも北九州でも、古代遺跡の研究は続けられている。卑弥呼の存在を裏付けるような大きな発見があった時、邪馬台国論争は終わるのであろうか。

 

大河ドラマとゆかりの地巡り

                                        令和6年7月掲載

 

                                    岩崎  秀泉

今から1000年もの昔、わが国の王朝華やかなりし平安時代に紫式部と言うシングルマザーが、世界最古の本格長編小説『源氏物語』を生み出した。今、その紫式部の生涯を描く大河ドラマが「光る君へ」と題して放送されている。

75歳の西宮の友人は高校1年生の頃、女生徒の間で「源氏物語読んだ?」が合言葉のように、あの膨大な小説を読むのが流行(はや)っていたという。若さゆえに読めたのであろうか。凄いことである。私は昨年まで苦手意識があり、読まず嫌いであった。大河ドラマの前宣伝もあり、また「時代も国境も超えて愛され、日本が世界に誇る文化遺産。西洋のどの小説よりも早く誕生し、女性の生きざまを知性で書きあげた世界で一番古い小説」等が聞こえてくると、去年から図書館で読みかけにしている『源氏物語』を再び手にした。大河ドラマに背中を押された感があるが、かなりの長編小説で読んでいくには時間と根気を要する。焦らず時間が取れる時に、楽しみながら読もうと長期戦を構えた。大河ドラマを理解するには登場人物の相関図、人脈が複雑なので、それをパソコンから引き出し、自分なりの資料を作り上げた。私に感化された静岡、尼崎の友人達とは、日曜日のテレビ放送後、感想、疑問等ディスカッションするため、その資料を彼女たちにも送り共有して楽しみながら話は弾む。

大河ドラマは平安時代中期の貴族社会が舞台で、のちに世界最古の女性文学といわれる『源氏物語』を書き上げた紫式部(ドラマの名前はちひろ)が主人公である。下級貴族の目立たない娘の紫式部が、世界が誇る長い物語を書き続けたその原動力、想像力はどこから来たのであろうか。とりあえずスタートラインに立ってみることにした

紫式部は平安時代中期の下級貴族で、和歌や漢籍に通じ、学問一筋の非社交的な藤原為時の娘として生まれた。母と姉は早世。弟がいる。式部は幼児から利発であったと見え、父から文学の素養を受けるも「この子が男だったら」と父を嘆息させたとも言われ、もの心ついた時から文学に親しみ、10余歳のころには父の蔵書を読みふける文学少女に育っていたらしい。テレビでは積極的でおきゃんに見える紫式部だが、この時代にしては結婚も遅く浮いた噂もなく、父ほどの年齢の藤原宣孝(のぶたか)と結婚し一児を授かるも、3年余りで宣孝は病死。シングルマザーとなった紫式部は精神的にも金銭的にもよりどころ失い、淋しさと心の空虚を満たすには、物語を書くことが最適だったのではなかろうか。天は夫との死別と言う悲劇を彼女に与え、そこから運命の輪が動き出した。自らの心と深く向き合い境遇や身分を超えて共通する心の苦悩を見出し小説『源氏物語』へと繋げていく。

奈良時代には、女性天皇が男性天皇と半々で存在し、上層貴族層の女性も女官(じょかん)として宮廷で活躍していたが、平安時代になると、女性天皇が即位することはなくなり、さらに女房(にょうぼう)や女官として出仕(しゅっし)することが恥であるとする女性認識も生まれて来る。このころの妻の立場は「実家の家柄」で決まるという。当時の姫君たちは恋愛も結婚も自分で選べず、実家の経済力と家柄が良くなければよい婿を取ることが難しかった。自分の意志を持たず自己主張をせず、周囲のいう通りになることが、上品な姫君の美徳とされてきた。要するに当時の姫君たちは自分の恋も結婚も選ぶ自由は与えられていなかった。結婚はほとんど親や兄による政略結婚であった。この世を正したいと思う紫式部の中に権勢批判が芽生え、次第に自らの才能と努力で小説を書き進め、変わりゆく世を求めたのではなかろうか。

藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の五男に生まれた道長(みちなが)は政界進出には遅かったが権力闘争に勝ち、娘を介して天皇家との繋がりを強固なものとしたことは、支配者にとって最もいい時代だったのかもしれない。当時は摂関政治の全盛期で、その頂点に藤原道長(ふじわらのみちなが)(966~1028)がいた。娘4人を次々に天皇の(きさき) (皇后、中宮)として権勢をふるった道長。他の国では天下を取ろうと思えば王朝を変えればよい。日本では娘を嫁がせ、外祖父(がいそふ)として実権を握る。

紫式部が仕えた中宮彰子(しょうし)の父親、最高権力者の藤原道長との交流を通じて紫式部は持てる才能を最大の武器として創造力を駆使した。当時のエリート貴族たちが所望していたのは「知性」に他ならない。紫支部の才能を知った道長は一条天皇の気を、娘彰子に向かせるため紫式部をスカウトし、支援しながら文化的なパトロン活動により『源氏物語』が生み出されたともいう。光源氏の恋愛遍歴を通じて、平安貴族の恋愛と結婚事情、身分違いの悲しさを筆で訴え続け、道長にも影響を与えながら情熱を傾けたのではなかろうか。

折しも京都で紫式部と源氏物語の非公開文化財特別公開があり、普段は見学できない庭園、仏像、襖絵、建築などが期間限定で見られるとの情報を得た。友達と行って見ることにした。私の住んでいる吹田市は京都、奈良、滋賀などに行くには交通の便が良く、隣の町に行く感覚で気軽に行けるので助かる。

まず蘆山寺(ろざんじ)に行った。京都御所の近くにあった。平安時代に元三大師良源(がんざんだいしりょうげん)が創建。現在の境内地が紫式部の邸宅跡であり、源氏物語執筆の地とされている。紫式部物語にちなんだ桔梗のお寺としても有名で6月から9月初旬には本堂前の源氏庭(げんじてい)に紫色の可憐な花が咲き誇るとか。仙洞(せんとう)御所から移築された本堂では住吉派の絵師による源氏物語の「若紫(わかむらさき)」や「絵合(えあわせ)」の図「源氏絵屏風」などがあった。友人と紫式部もここの縁側に座って庭を眺めながら筆を執ったのかしら?  と話しながら思いにふけった。

清凉寺(せいりょうじ) 嵐山付近にあり、近くには大覚寺、天龍寺、大河内山荘庭園など自然豊かな場所にあった。 清涼寺は、浄土宗のお寺で、かなり広い敷地で庭の白梅・紅梅が出迎えてくれた。平安時代初期、嵯峨天皇の息子である源融(みなもとのとおる)の山荘があり棲霞寺(せいかじ)が建立されたが、その後衰退し、阿弥陀堂だけ残り、今は清涼寺というひとつの寺になった。光源氏のモデル・(みなもとの)(とおる)ゆかりの名勝庭園。(みなもとの)(とおる)の顔をモデルに作られたという立像の釈迦如来像があり、整った顔立ちは光源氏を偲ばせる。『源氏物語』文章中の「絵合(えあわせ)」「松風(まつかぜ)」の章では、光源氏が嵯峨の地に御堂を建立したとされている。

 

最後は名勝渉成園(しょうせいえん)JR京都駅から近いところに位置し、1万6百坪の敷地を有し、京都御所や二条城を除けば洛中で随一の規模を持つ。渉成園は、かつて周囲に枳殻(からたち)が植えてあったことから、枳殻邸(きこくてい)とも呼ばれている。今は東本願寺の別邸である。庭園と、棟方志功(むなかたしこう)の襖絵が今回特別公開された。襖絵は、公開の機会が少ない作品。人数を小分けに制限し、監視付きで見せてもらったが、私は不勉強なのか棟方志功の良さが未だにわからない。

この地は、平安時代前期の左大臣、源融が営んだ六条河原院の旧蹟という伝承があったことから、庭園の随所に「塩釜の手水鉢(ちょうずばち)」や「源融ゆかりの塔(供養塔と言われる九重(くじゅう)の石塔)」などが配されていた。源融は嵯峨天皇の皇子で源の姓を賜って臣籍に下り、天皇の子でありながら天皇になれなかった人である。

 

紫式部は石山寺からと、いわれているように、紫式部が『源氏物語』を起筆したという滋賀県大津の石山寺には桜の咲く3月末に行く予定にしている。

 

紫式部の書いた『源氏物語』を、ある歴史家がテレビで「色々なものが詰まっている古い日本の幕の内弁当のようだ」といっていた。

一人の男性への想いも込めて、いかにして書き、読まれ、高い評価を受けたか私は大河ドラマと共に、これから「幕の内弁当」の包みを開けて楽しもうと思う。

 

  

桂離宮と松尾大社

                                          令和6年6月掲載  

                                   宮本  吹風

 

令和5年5月、桂離宮(かつらりきゅう)松尾大社(まつおたいしゃ)行った。毎年新年を迎えると、その年の目標を幾つか立てる。令和5年の目標の一つが京都の名園巡り。名庭園を紹介する本を読み、中でも日本庭園の傑作として有名な桂離宮に行きたいと思っていた。

  季節的に新緑が美しいと思われる5月を予定して、2月に往復はがきで宮内庁へ申し込み、1週間後に「参観許可」が届いた。

妻と阪急梅田駅から桂駅へ。丁度昼時になり、駅前の店で昼食を摂る。店の人に訊く。

「桂離宮へ歩いてどのくらい掛かりますか」

「15分ほどです。道は分かりますか。銀行の角から警察を左へ」

 わざわざ、店の外へ出て来て教えてくれる。直ぐに道の先にこんもりした樹林が見えたので検討がつく。この日は晴れているが遠くは霞んでいる。道路に温度表示が出ている。31度は真夏日である。暑い。入口は大通りの反対側にある。桂川を右手に見ながら塀際を歩く。

 「参観許可」の確認が済んで待機する。指定の時間帯には見学が2組ある。私の入ったグループの参加者は12人で1人の案内人がついた。スタートして園内の主な要所の説明を聴きながら見学する。1時に開始して約1時間を要した。

 

パンフレットにある桂離宮の歴史を読むと、「桂離宮は、17世紀初頭御陽成(ごようぜい)天皇の弟八条宮(はちじょうのみや)初代智仁(としひと)親王により宮家の別荘として創建された。玄和(げんな)元年(1615)頃に山荘の造営を行い桂山荘を完成させたとみられる。古書院(こしょいん)はこの頃建てられたものとみられる。一時、荒廃の時期もあったが、二代智忠(としただ)親王が復興、増築に力を入れ、寛文(かんぶん)2年(1662)頃までに中書院(ちゅうしょいん)や新御殿、他、池に調和された建物を建てた。

 八条宮家はその後、常盤井宮(ときわいのみや)京極宮(きょうごくのみや)桂宮(かつらのみや)と改称されて明治に到り、宮家は絶え、桂山荘は、明治16年(1883)に宮内庁所管となり、桂離宮と称されることとなった。創建以来火災に遭うことなく、ほとんど完全に当時の姿を伝えている」とある。

 離宮の総面積は約6万9千平方メートル。宮内庁の管理でさすがに良く手入れされている。中央に複雑に入り組んだ汀線(ていせん)をもつ池があり、中島があり、土橋、木橋、石橋を渡りながら巡る回遊式の造りになっている。池を望む松琴亭(しょうきんてい)園林堂(えんりんどう)笑意軒(しょういけん)月波楼(げっぱろう)などがあり、小屋造りの建物は緑の樹林に包まれ、池の景色を引き立たせている。飛び石を歩く時は足元に注意し、目を上げると次の新しい景色が待っている。作者の意図だろうか。

 よく写真で見る書院は残念なことに工事中の覆いが掛けられている。新書院の側面は見ることができた。書院は3つの棟になっている。古書院、中書院、新書院。来て見て知ることであるが、池を望みながらの観月は確かに風流の極みであろうと想像する。途中にある燈籠は大きくはないが、24基ある。全部でなくとも灯が点れば贅沢な景色であったろうと想像する。

 

  桂離宮宮人の夢風薫る

 

 帰りは、駅までの道案内図をもらって往きと違う道を歩く。

 

 この日、予定したもう一つの庭園は松尾大社。以前、鈴虫寺へ来た時に寄ったことがあるが、境内を見渡しただけであった。昭和期の有名な作庭家、重森三玲(しげもりみれい)の庭園がある。 

 桂駅から嵐山方面へ2つ目の松尾大社駅へ。駅前の大きな朱色の鳥居をくぐる。拝観券を貰って訊くと、作庭は3か所ある。曲水(きょくすい)の庭は、渡り廊下に囲まれて流水がつづら折りに流れ、所どころに石が配置されツツジが映える。上古(じょうこ)の庭は、渡り廊下をくぐった反対側山の斜面一面に岩が並び別世界を醸し出している。蓬莱(ほうらい)の庭は無料で見学できるの周りに沢山の岩が並。掲示板には「鎌倉時代に流行った蓬莱思想である不老不死の仙界を表している」とある。

 パンフレットの説明では、「上古の庭は古来から神社と深く関わりあった磐座(いわくら)を表している。石は徳島、香川、愛媛の緑泥片岩(りょくでいへんがん)を使用した」とある。薄緑を帯びた石は雨に濡れると濃い緑にな名工の作庭ではあるが桂離宮を観たせいか印象が薄いものになった。

 

 一巡りして喉が渇く。ボトルの水を一気に飲み干した。

 

おわかれ

                              令和6年5月掲載

                            みやうち けいこ

 

 自分史の会で席を並べていた足立さんが8月24日に逝去されました。7月7日にご自宅で会った時は、少し痩せているように見えましたが、「体調に波があってね、今日は調子が良くておしゃべりができるのが嬉しいわ。原稿を書いて7月の例会に行きたいです」

と話しておられたのですが……。もっと色々お話をしたかったのに、今となっては叶わない現実を前にして、とても悲しく淋しいです。

 足立さんのことを想うことが供養になるのではないかと考えて、作品を改めて何度も読み返しました。

 

 足立さんは私より2か月早い令和3年10月に広報を見て入会されました。新会員3人が加わり、令和4年は11名のスタートになりました。が、コロナ禍で例会が開かれず3月までは悶々と過ごしていました。4月にようやく通常に戻り、6月から新会員のためにパソコン勉強会が開かれることになりました。第1回目は足立さんの家ですることになり、初心者の私も参加しました。例会では足立さんと言葉を交わしたことがなく、この時が初対面でこのあと5回ほど一緒に学びました。明るく前向きで行動力があり、のんびりしている私にはとても良い刺激になりました。足立さんは、

「人を呼んで賑やかにおしゃべりするのが好きなんですよ。パソコン勉強会を我が家でして下さることになって本当にうれしいわ、願ったり叶ったりです!」

 しかしこの頃から病魔におかされていたことを自分史の「告知を受けて」で知りました。自分史は紙の墓碑ということを漠然と理解していましたが、足立さんの作品を読み返すと「紙の墓碑」の意味が鮮明になり感銘を受けました。5作品の中に人生の断片がぎっしり書き綴られていて、足立さんと出会ってからおわかれするまでの期間は短かったけれど、密度の濃いものとなりました。

 50歳前後に1人で海外旅行をしたり、68歳で紙芝居サークルを立ち上げてエンターテイナーになったりと、華奢な身体のどこにそんな強い力があるのか?とバイタリテイ溢れる足立さんのことはとても心に残ります。

4月に自分史の会の山本さんの家でパソコン勉強会がありました。足立さんは少し遅れてタクシーで来られ、ニュージーランドへの一人旅のことを熱く語りながら、パソコンに一生懸命打ち込まれていた姿は今でも鮮明に覚えています。私は一足先に退席しましたが、足立さんは原稿を最後まで仕上げて帰られたということでした。それが最後の作品になった「母の口癖と私の生い立ち」だったことをあとで知り、とても切ない気持ちになりました。

ご両親のことから始まり、ご自身の性格や軌跡、印象的な海外への一人旅。病と闘いながら、人生を静かに振り返られていた様子がよくわかりました。最後に、「何ひとつ不自由なく幸せな思い出にあふれている」と綴られているのを目にした時、ホッとすると同時に私も幸せな気分になりました。これを読まれたご家族は尚更のことだと思います。

「紙の墓碑」という宝物を残された足立さん。本当に良いことをされたと敬服いたします。どうぞ安らかにお眠りください。

 

お通夜の際、喪主の方がこのように挨拶されました。

「母は、楽しく賑やかなことが大好きでした。今日もみなさんが楽しい気分で過ごされることを望んでいると思います。どうか顔を見て帰ってください」

 涙ながらに棺の中を覗くと、ピエロの赤い鼻が目に入ってきました。5年前に立ち上げたサークル「ピエロの紙芝居」の赤い鼻をつけられていたのです。ご家族の配慮のおかげで沈んでいた気分に灯がともり、不覚にも笑いがこみあげてしまいました。

目を閉じられた足立さんはとても穏やかなお顔で、

「悲しまないでね、私の人生は幸せでした」

 と言われているようでした。

 

 幸代さん、短い間でしたが楽しい時間を共有できたことを本当に嬉しく思います。ありがとうございました。

最愛の優しいご主人に、もうお会いになりましたか?

 

高野台慕情60あなたを見守る  ―吹田市総合防災センター―

                                            令和6年4月掲載

                                      江藤憲

   

2024年2月3日()午前10時から、南千里駅傍の吹田市佐竹台1丁目6番3号で、「吹田市総合防災センター」の完成披露式典と内覧会が行われ参列した。

テープカットの後、ズボンは白、ブレザーは真紅、ネクタイは紺色に白い帽子の音楽隊の演奏が始まる。「ホーム・スイート・ホーム(埴生の宿)」「負けないで」の2曲。郷愁の歌と阪神淡路大震災で歌われた曲だ。平成7年1月17日阪神淡路大震災では6433人が犠牲になっている。寒風吹きすさぶ大空に響き渡り、美しい演奏に合わせて、両手を組み、小さく口ずさみながら涙を拭う。

 

10階からの俊敏な救助訓練披露に息を飲んだ。6階に住んでいる私は、目が点になる。

「吹田市総合防災センター」(DRCsuita)は、北消防署、北大阪消防指令センター、高度救助隊等の消防機能、土木部行政機能、教育センター機能を有し、災害時は本市北部の災害活動拠点となる複合施設」と、施設概要にある。文末に総合防災センターの全景写真を掲載する。

撮影は、宮本吹風氏。「吹田自分史の会」会長。私達を見守り、大空に聳え立つ要塞。見事な映像は、自分史とともに後世まで伝えられて行く。

内覧会では、鵜の目鷹の目、メモを欠かさない。吹田市報の記者も来ていた。言葉少なに傍を離れない。記者気取りの私も取材に必死だ。彼は、この記念すべき日を市報にどう書き残すのだろう。

地上10階、地下1階。屋上には、大規模災害時の消防隊員救助活動や移動のためのヘリポートがある。

大阪府からの土地購入代は16億円。総工費は33億469万円。工事には3年を要した。駐輪場、駐車場も完備。2024年4月1日から業務開始だ。

38万人の吹田市民を災害から守り、HUG(はぐ)(抱く)する砦だ。

2024年1月1日、能登半島地震は、年明けから日本列島を揺らした。

阪神淡路大震災は、2018年6月18日午前7時58分、震度5強。当時居住していた高層4階は亀裂が入り現住地に転居することになった。

青天の霹靂、「まさか」は、再びやって来た。月日は百代(はくたい)過客(かかく)にして、過去は過酷で尊い教師だ。

 

軌を一にして2月7日、朝日新聞は、戦慄するような吉村洋文(よしむらひろふみ)大阪府知事のアンケートを発表した。曰く「能登半島と同じ問題は大阪府でも可能性がある」

能登半島地震の発生から1か月に合わせて朝日新聞が実施した全国知事アンケート結果だ。

吉村洋文知事は、能登地震と同じ震度7、同規模の地震が府内で起きた場合、道路寸断などで物資輸送や救助作業が妨げられる可能性があると回答した。

府は地震の被害想定や防災、減災対策の見直しを進めて行くとしている。

「水が無い、電気が無い、燃料が無い、寝る所が無い」

痛ましい多くの犠牲者と、甚大な損害を(もたら)した能登半島地震、同じことが、何時、起こるかも知れない。30年以内に70から80%の確率で発生するとされる南海トラフ地震。

日本列島は巨大地震の活動期に入っていると言う。大地震は必ず来る。その被害は想像を超えるものになるという。

鮮明な記憶の中で後世に残るこの日を拙文に残したい。私達を見守り、災害時にはHUG(はぐ)する「吹田市総合防災センター」。

2024年2月3日の記念すべき式典に参列させていただいた一人として感謝の気持ちを捧げたい。

 

おていさん

                                 令和6年3月掲載

  

                                  出久野 坊

 

一昔前、カンテキとか七輪とか呼ばれた50センチほどの高さの素焼きのコンロ。その上に載せられたアルミ製のヤカンからは湯気が勢いよく上がっている。母は両手に持った太めに毛糸をゆっくりと湯気に当てながら右側へ繰り出していく。ねじれていた毛糸が湯気を通るとほぼ直線になって折り重なる。母の左手の下には、父が戦前(1930年頃)の海外留学の際に買って来た厚手の毛糸のセータ―があった。コンロの右側のまっすぐな毛糸が増えるに従い、セーターは形を失っていった。昭和17年、私が5歳の頃である。既に日本の衣料品は不足気味で、毛糸などは市販されていないと母が言っていた。

 母はそれから何日も毛糸の編み物に熱中していた。朝から夜遅くまで。初めはパンツだと私はおもった。それが日を追うにしたがって長くなり、父が穿いているズボン下、パッチの形になった。

 早春のある朝、母は私を連れ自宅近くの当時の国鉄須磨駅へ向った。祖父の住む京都の宇治へ行くのだと言った。私の父方の両親は私が生まれる前に亡くなっていたので、祖父母は母方だけであった。

どう乗り継いだかもう記憶にないが、気がついたとき私と母は宇治川近くの高台にある平屋建ての広い八畳ほどもある座敷にいた。部屋の中央に敷かれた布団に横たわっている祖父久兵衛さんの傍に坐っていた。祖父は私の顔を見るなり「とよちゃん、大きくなったなあ」とほほ笑んでくれた。私にはそれまで祖父に会った記憶はなかった。

母は上布団をめくり、編んできたパッチを祖父の下半身にあてがい、満足そうに微笑んでいた。寸法があったらしい。あけ放たれた戸外からは川音が響いていたのを忘れない。

明治8(1875)年生れの祖父は滋賀県五個荘(ごかしょう)出身で京都に出て来て呉服屋を営み、一代で産を成したという。釣りが好きで川の辺に別荘を立て、店が不況で閉店した後は釣り三昧の日々をおくった。祖父は私達親子が訪れたその年の暮れに亡くなった。糖尿病であった。

私の母は祖父の妻、ていさんが産んだ八人の子供の長女であった。勝ち気で聡明であった母を祖父はこよなく可愛がったようだ。母は当時としては優秀であったらしく京都府立の女子高等学校を卒業していた。声も良く声楽を学びNHKで独唱したというのが自慢であった。祖父と母は固い親子の絆で結ばれていた。だから、祖父の病を聞きすぐにパッチを編み出したのだ

 祖母のおていさんはその後しばらく宇治の家で三男夫婦と生活していたが、やはり私の母との相性が良いらしく、戦火で罹災し京都に転宅していた私の実家へやって来た。おていさんは明治15(1883)年生まれ、京都に来たのは80歳頃であったのだろう。8人の子供を産んとは思えないほどの元気で矍鑠としていた。すらりと背が高く色白で若い頃はさぞやと思わせる昔風の美人であった。私が結婚すると、父は実家から100メートルほども離れた処の木造2階建てのアパートの一室を借りてくれた。電話はなかったが実家が近かったので不自由はない。程なく私の長男、一郎が生まれた。おていさんは曾孫の一郎をこよなく可愛がってくれた。木造アパートの鉄板張りの階段を下駄ばきで一段ずつ足をそろえてトーントーンと足音を響かせながら、毎日のようにやって来てこぼれんばかりの笑顔で一郎をあやしてくれた。私達夫婦は「おばあさん」と言うべきところ、敬愛を込めて「おていさん」と呼んでいた。

 妻は「おていさん」の足音を聞くと授乳や水仕事を止め玄関にでて祖母のノックを待った。私も祖母の息子に対するひたむきな愛情に感謝して、祖母が大好きな京都南座での歌舞伎の一等席をいつも買い求め、取り立ての免許で送迎したものだ。当時の私の勤務地が京都だったから出来たのだ。そんなある日の夕方、勤務先に母からの電話があった。

「あんた、帰りしなに丸太町の赤十字病院に寄って欲しいのんや。おばあちゃんが……」

と言って電話が切れた。私は定刻の五時に手早く仕事を終え病院へ向かった。そこですでに来ていた親族の一人から祖母の逝去を聞かされた。溢れ出す涙に耐え、車を運転して自宅へ戻り、アパートのドアを開けるなり妻が言った。

「おていさん、亡くならはったんやろ」

電話もないのに、何故?と私。

「今さっき、来はった」

と言う。 妻はいつもの階段の足音を聞きドアの前に立ったが、気配が無いのでドアを開けると見慣れたおていさんの後ろ姿が、ふと見えた気がした、と呟いた。

「きっと、サヨナラを言いに来てくれはったんや」

と私が言い、妻ともども号泣した。

 

 今年米寿を迎える私。あと幾たび春を迎え送ることが出来るのか。ふと思う日々である。

 

就寝前には胸の上に手を合わせ、ご先祖様と両親、縁あって子供を産んでくれた妻に心からの感謝の気持ちを捧げている。

 

令和の時代に

                                  令和6年2月掲載

                             ひろせ まさひと

 

 いまの私は文章を作成する手が進まなくなった。吹田自分史の会の文集、第十二集の掲載文として、年号が新たになった4年前に提出した未掲載の文章である。

 昭和11年生まれの私には、平成30年を経て「令和」の御代と3世代を過ごすことになる。

 自分の生涯を回想して大きく心に残ることの一つは小学校3年生の時に体験した、先の太平洋戦争敗戦の記憶であろう。ただならぬ時世を感じながらも幸いと云うか、あの時代に起きた負の現実の記憶がかなり鮮明に残る。

22年ほど前、我ら金池國民小学校3年同級生の、還暦を祝して別府で祝賀懇親会が開かれたその席で、当時の元教師から敗戦の8月15日を挟んだ手書きの日記帳が参加者に配られた。師は話す。

「淡々と書いてきた日々の出来事、想い願いをいつの日か披露したいと思っていたが、年号の変わる今年を機に教師の手記として原文のままを冊子とした」

 師の手記の表題は「遥かなり五十年 その時わたしは」とある。全文ではないが昭和20年7月17日の空襲、8月15、16、17日の悲惨な情況を抜粋して紹介する。私ではなく恩師の自分史である。

 

 7月17日(火)曇

 「敵機は大分市付近を攻撃中なり」とラジオ放送! いよいよ来た。7月に入って今夜か、今夜かと思われた焼夷攻撃が今、目前に展開されようとしている。時まさに16日夜11時、東方にパッと火の手があがる。西にも続いて北も。校長室の学籍簿を壕に入れホッと一息ついた時、「パーン、パッパッ」と光り花火のように落下する焼夷弾。校舎のあちこちで火が出る。盲学校の寄宿舎が物凄い勢いで火を吹き上げた。水を頭から被る。盲学校の炎がこちらへやって来て危険このうえもない。校庭には飛散した弾の油脂がメラメラと無数に燃えている。盲学校は燃え尽きて火の粉が第三校舎へ講堂へとどしどし入って来る。

 現場の火勢は大分衰えた。火はまだ屋根に残っている。「梯子だ、火叩きだ、水だ」。山はみえた。「命一つとかけがえに」と軍歌が思わず口をついて出る。

「おーい敵機は去ったぞ」「勝った、勝った」と声がする。

 挺身とはこのことだ。勇躍前進する兵とあまり変わるところはない。いい修練であったと神に感謝する。

 長い一夜は明けた。さすがに疲れが出たがさほど眠くはない。校長と門を出る。電車通りは全く通過困難である。帰校すると、上田先生宅は3人直撃で即死という。行ってみると、壕の中でお母さんが砂を浴びてこと切れている。その下に小さい男の子がうつ伏せている。もう一人の赤ちゃんは先生が抱いて洗っている。

「ばあちゃんこらえておくれな、アメリカにはきっと勝つぜ、仇は討つきな」

 涙ながらに洗う先生の声に込み上げるのをこらえることが出来なかった。

 

 8月15日(木)晴

 ああ、予期せざりし文字通り最悪の日来る。正午畏くも大詔は喚発せられ、米英ソ支四か国に対して遂に和を講うの止む無きに立ち到った。悄然襟を正して聴きいる吾々の肺腑をつく玉の御声のひびき。陛下の御胸中を推し測ると涙がとめどもなく流れた。じっと歯を噛んだ。口惜しかった。目の前が急に真っ暗になったような気がした。凡ての希望は失われた。

 大日本帝国は、昨日までの日本ではなくなったのだ。3千年の光輝ある歴史も遂に幕を閉じたか。軍艦マーチも君が代も、もう永久に聞けないかも知れぬ。新型爆弾の威力とソ連の参戦がこれ程まで事態を決定的ならしめようとは思わなかった。苦難の道、いばらの道、涙の生活が明日から始まるのだ。

 

 8月16日(金)晴

 国敗れて山河あり。一昨日までは「国敗れて山河なし、然らずんば死か」と意気込んでいたのに。窓外の蝉の声もうらめしい。朝起きるのも、朝食を摂るのも、出勤する足どりも全く力がない。子ども達に顔を合わせるのが恐ろしい様な気さえする。朝会が済んで教室に臨むのに気が引けた。しかし可愛い40の子どもたちが待っている。

 勇を奮って詔書の説明をし、今までの敢闘ぶりを讃え、将来への覚悟を説いた。吾ながら言々句々悲痛の叫びであった。子ども達は絶え入るように泣いた。俺も泣いた。泣きながら「臥薪嘗胆!」今日から新しい日本と共に生まれ変わったのだ。死んだつもりで如何なる苦難も乗り越えよう。

 

8月17日(金)晴

 子どもが13名来た。よい子ばかりであった。学校田の稗を採った。誰の口に入るかは分からぬが真剣にやった。作業を終えて教室に入り「君が代」を歌った。悲痛の極みであった。紀元節を、天長節をそして御製(ぎょせい)を、6年になって学習したあらゆる歌を子ども達と一緒に感慨深く歌った。おそらくこれが最後になるであろう歌を。高崎山にはいつものように雲が掛かっていた。蝉は相変わらず鳴いていた。だが吾々の胸の中は張り裂けそうであった。

「もうお帰り」と言ったが、

「先生勉強を!」と言ってどうしてもきかない。子ども達の真剣な目つきを見るとその願いを聞かぬ訳にはいくまい。よし、やろう、最後の授業を(第一次大戦の時、独仏国境の町でフランス語の最後の授業をした教授の話を思い出す)。子ども達よ、今の気持ちを忘れるな、じっと歯を噛んで我慢するのだ。

 市役所から老幼婦女の疎開命令来る。6年の子どもを集め町内会の家に手紙を回す。どうしてこんなことまで学校がしなければならないのか。半月が中天にかかって美しかった。

 最後まで頑張り続けた子ども達、俺の生命の子ども達とも遂に別れるべき運命の日が来た。願ってもせん無いことかも知れぬが子ども達の上に幸せあれ!

 

 

 

今年の誕生日は古稀

                                                                                    令和6年1月掲載 

                               福田 壽子

 

 令和5年6月5日、70歳の誕生日を迎えた。いわゆる古稀だ。

 古稀のイベントが4回あったので、忘れないように書いておこうと思う。

6月の中旬、友人3人とランチをした時、全員が古稀を迎えた訳で、それを祝って紫色のちゃんちゃんこを着て、紫色の帽子を被って一人ずつスマホで写真を撮った。ちゃんちゃんこは友人の一人が家から持参してくれた物である。それなりに可愛く写っている。記念になるなと思い、色々な人に見せたら、

「あら、古稀って紫色なんだ」

と驚きの声が多かった。還暦の赤色は知っていても、歳を祝う紫色のことは知らない人が多いのかもしれない。

 6月下旬、西宮に住む三女夫婦がお祝いに、江坂にある「PISOLA(ぴそら)」というイタリアレストランに連れて行ってくれた。そこは、厨房の中の人も接客する人も全員が女性で、動きがキビキビしていて気持ちのいいお店だった。ピザもスパゲティも全ての料理が美味しかった。生まれて5か月の孫、(ぜん)くんも一緒で4人での楽しい一日となった。

 私がパート勤務しているHAPIKA(ハピカ)保育園に3人の新しい方が入職されて、歓迎会が7月にあった。千里南公園内にある「バードツリー」というお店で、バーベキューと飲み放題の豪華な昼食会。ほろ酔い気分で肉をほおばっていると、保育園を経営している歯科医院の院長先生がいきなり、

「福田さん、おめでとう」

と、大きな花束を持ってこられた。古稀のお祝いをしてくださったのだ。花束なんて、もらったことが過去に一度だけあったけど、もう何十年も前のこと。とても嬉しくて、家に帰って早速花瓶に活けて写真を何枚も撮った。古稀に因んで紫色の花が多くあって、緑の葉っぱとのコントラストが綺麗で暫く見とれていた。

 7月下旬、夏休みに入って次女一家が埼玉県から、5歳と3歳の2人の子どもを連れて遊びに来た。そこへ、三女一家もやって来た。然くんを連れて、みんなで私の古稀のお祝いをするために集ってくれたのだ。お祝いのケーキと、「然」というラベルの貼ってある、祝い返しに貰ったワインを開けて皆で賑やかに乾杯した。

 次女は今回、2週間もわが家に滞在してくれた。本当に久しぶりのことである。その次女が私に腕時計をプレゼントしてくれた。私の気に入ったものを買うために、一緒に店を回って5件目でやっと、ゴールドでソーラーのオシャレな時計を買ってくれたのだ。私の大切な宝物になった。

 家族が揃うって幸せなことだと思う。千葉県に住む長女一家も一緒に、いつか全員揃って食事会をしたいというのが私の夢で、これは10年後の傘寿(さんじゅ)の時にとっておこう。それまで皆が健康で楽しく、充実の日々を過ごしてくれることを心から願っている。

 

 最近、坂東(ばんどう)真理子(まりこ)さんの『70歳のたしなみ』という本を、図書館で借りて読んだ。

 「人生70年、古来稀なり」という()()の詩から、70歳を古稀と言うらしい。

 心に残るフレーズが沢山あったので、記録して実践してみようと思う。例えば、

上機嫌に振舞っているだけで、周囲に明るい気持ちを与えられる。つまり、上機嫌に生きる。

◆やる気が70歳以上には不可欠である。

◆今日行く所がある、今日は用があると、仕事も用件も行く所も自分で作るのだ。

◆ボランティア活動をする。

◆自分自身の人生を肯定する。

読んでいて頷くことしきり。70歳が人生の節目であり、次のステージが始まる出発点なんだと、勇気づけられた。

 昔、子どもの頃、70歳と聞くとものすごく老人に思えたが、実際に自分がその歳になってみると、全く老人という自覚はなく、あるのは体のあちこちに支障をきたしているという自覚だけである。70歳の峠を越えるのは大変なことだと、つくづく思う。

 

 今年の前半は、腰を痛めて救急車を呼んだり、風邪と思っていた咳が長引いて喘息になっていたり、健康に不安を感じることが多かった。でも、何度も古稀のお祝いをしてもらって、忘れられない年になりそうだ。

 いつも一緒にランチをしている3人の友人に呼びかけよう。

10年後の傘寿は何色でお祝いをしようか。みんな元気でその日を迎えようね。そして皺だらけの顔で写真を撮りましょうね」

 

 それなりに可愛く写るといいな。

 

 

私の自慢

                                      令和5年12月掲載

                                 八重桜

 

昭和52年、マンションの2階に住んでおられた中学校の家庭科の順子先生が、立ち話の途中でこう言われました。

「人間の身体っていうのはね、皮も骨も筋肉も、すべてが食べ物でできていることをいつも自覚してないといかんで」

その言葉は衝撃でした。看護学校で栄養学も解剖生理も多くの時間を費やして勉強していましたが、それはペーパーテストのためでした。家族を持ち3度の食事を作る毎日の中でも深く考えることはなく、大まかに4種の食品群を頭に入れて作るぐらいでした。

健康な身体を作るために本気で献立を考えなければ、と気付かされた言葉でした。

その頃、テレビの番組で一日の食品を30品目食べると、まずまず健康な身体を保つことができるということを知りました。やっぱり青木さんの言っているとおり、食べ物は非常に大事なことだと改めて認識しました。

その数日後、順子先生が、

「自分で味噌を作りませんか? 発酵食品は身体に良いし、塩分も12%に考えたよ」

と声をかけてくださいました。味噌作りの知識はありませんが直ぐにグループの仲間に入れてもらいました。

レシピは順子先生の手書きです。ミンサーはみんなで使いまわして、各家庭に順子先生が巡回するシフトも作成されました。

〔材料 〕大豆1.5㎏ 糀2㎏  塩560g

〔用具 ]圧力釜(大豆を煮る)   ミンサー(煮た大豆をつぶす)

寿司桶(糀をほぐす)

  網じゃくし(小)煮た大豆をミンサーに入れるのに便利 

  ボールとザル(煮た大豆をあける)   

 ボール(中)ミンサーから出てくる大豆をうける  

 ボール(大) 塩と糀を混ぜて潰した大豆と合わせる時に使う

出来上がりを入れる壺またはタッパーの容器

順子先生の書いたレシピは丁寧でわかりやすく、さすが中学校の先生と感服しました。しかしこの年は、9月の出来上がりに愕然としました。壺を開けてみると白いカビの山です。順子先生はとても申し訳ないとグループの皆に平謝り、頭を下げられました。

それから2年後、順子先生は自信たっぷりの満面の笑みを浮かべて言いました。

「味噌の最後に酒粕で蓋をするとカビが発生しなかったよ」

2年の研究と実験の結果です。頭が下がりました。それからは、材料に酒粕を追加し出来上がった味噌の上に、酒粕を丁寧に塗り空気が入らないようにして仕上げました。酒粕が防腐剤の役割と空気を遮断してカビの防止をしてくれました。

こうして私の味噌作りが始まりました。1年で一番寒い節分の頃、大豆を10時間ほど水につけて、レシピ通り大豆を煮ます。2年目も順子先生に手伝ってもらいました。

「あんたどんくさいね、手伝わずにおられへん。でも3年目からは自立してよ」

次の年からは子どもたちに手伝ってもらっていましたが、子どもがお嫁に行くと、次は姪に手伝ってもらいました。

次は嫁いだ娘と、よちよち歩きの孫がマスクをして糀をほぐしたり、ミンサーでミンチにした大豆をお団子にして、まるで砂場のどろんこ遊びのように味噌づくりに参加して、我が家の楽しい行事の一つになり40年目を迎えました。

 最近は、作る量も少なくなり夫婦でのんびりと作っていますが、味噌の入った壺が重たくて孫に地下まで運んでもらう年齢になりました。夏に発酵した糀と大豆が味噌になり、今年も10月に酒粕をめくると、味噌の香りがぷんとして美味しい私の自慢の味噌が出来上がると思います。楽しみです。

 

私のもう一つの自慢料理は「カツオのたたき」です。

3枚におろした大きなカツオの血合いをとり、一枚を二個に切り分けて塩を少し振り、4本の金串をさして全体が白くなるまでガスで焼きます。今はIHコンロなので金串も使わず、フライパンで全面を焼き付けます。IHコンロで初めて焼くときは心配でしたが、ガスで焼くのより上手に焼けて簡単です。

家族4人の頃は1匹で十分でしたが子どもたちが所帯を持ち孫も大きくなると、1匹では足りなくなり、2週に分けて作ることになりました。

タタキは誰にでも作れますが、大切なことは、鰹の鮮度の良いことです。焼き過ぎないことと焼けたらすぐに氷水につけて冷やすこと。その後は、ペーパーで水分をふき取り、冷蔵庫で冷やしたカツオを切って大皿に盛り、カツオの切り身の間にたっぷりのネギ、薬味を入れて軽く叩き来上がりです。ここで2人の娘に電話をかけると2人とも笑顔でやってきます。その嬉しそうな顔を見ると、私はまた元気が湧いてきます。

 

 

 

古代史の旅

                                          令和5年11月掲載

                                佐藤 彩

 

私が古代史の魅力を知ったのは30代中頃のこと。枚方市のミニコミ紙に所属し、地域に伝わる七夕伝説を手掛けたことがきっかけであった。教科書には出てこない古代史の面白さを知り、その後は新聞や雑誌で古代史の記事を見かけると熟読し、関西にも多くの遺跡が存在することを知ると、いつの間にか私は古代史ファンになっていた。

わが国最古の都である飛鳥に何度も足を運び、歴史好きな友人と、竹ノ内街道をはじめ、山辺の道、葛城古道などを歩いた。

 

 飛鳥(あすか)最古の豊浦宮(とゆらのみや)

 

雉の声で目が覚めた。

〈そうか、飛鳥に来ていたんだ〉

令和5年5月、私は三原市に住む友人と二人で、飛鳥に来ていた。民宿を予約したのは、友人が自転車に乗れないため、巡回バスの利用ではとても一日で飛鳥を回れないと判断したからだ。ぼんやりとした頭で、前日のことを思い出していた。

 

前日はまず、飛鳥資料館で飛鳥の全容を友人にざっと知ってもらい、その後、バスで飛鳥寺へ。わが国最古の都として知られる飛鳥だが、飛鳥寺は最古の寺であり、飛鳥大仏も最古の仏像である。現在の本堂はかなり小さいが、創建当初の飛鳥寺は塔があり、その東、西、北に3つの金堂を置く「一塔三(いっとうさん)金堂式(こんどうしき)伽藍(がらん)」であったとのこと。回廊もある広大な寺院は、高句(こうく)()の技術により建立されたとの説明を受ける。大仏の面長なお顔立ちは確かに、朝鮮半島から伝わったことを感じさせるものだ。

その後は歩いて酒船石(さかふねいし)遺跡へ。これは二つの遺跡の総称だが、私が初めて飛鳥を訪れた時は、丘の上にある酒船石しかなかった。平たく大きな石には何本もの溝が掘られ、そこに液体を流したであろうことは容易に想像できた。記録が何も残っていないことから、謎の石といわれている。

その丘の裾に多くの石を使った遺跡が発見されたのは、平成4年のこと。亀の形の石造物と小判型の石造物が北の端に置かれ、そこからは丸みを帯びた石がテラスのように敷かれていたり、階段状の石垣になっていたり、幾筋もの溝や石段を形作ったりと、大きな石敷き広場となっている。

まず、四角い石を使った湧水施設があって、その下に小判型の石造物があり、亀形石造物へと続く。一見しただけで湧水施設から石造物へ、次々と水の流されていたことが分かる。

〈ここで一体、何が行われていたのだろう〉

 訪れたすべての人が思うことである。日本書紀には、(さい)(めい)天皇2年の条に「宮の東の山に石を(かさ)ねて垣とす」「石の山丘」の記述があることから、この酒船石遺跡は斉明天皇の「両槻宮(ふたつきのみや)」ではないかとの推測もある。そしてここで行われていたのは、祭祀的なものであろうとか、外国からの貴賓をもてなした行事であろうなどと、様々な憶測がある。丘の上の酒船石とは関連があるのか、ないのか、そのあたりも謎のままである。

 

 この日は5月としては異常なほど暑かった。この後、友人と私は(あま)(かしの)(おか)登り、夕焼けの二上山(ふたかみやま)を眺める予定だったが、二人とも疲れ果ててしまい、チェックインの時間には少し早いけれど予約した民宿・北村へと急いだ。

 民宿のオーナー夫妻は友人と私を温かく迎え入れてくれた。

「一休みされたら、お散歩はどうですか? (うち)の裏手に昔から『古宮(ふるみや)』と呼ばれる小さな遺跡があるんですよ。その周りの田んぼや畑はすべて(うち)の土地ですが、遺跡とその周囲数メートルは国有地なんです」

 その遺跡から金銅製四環壺(こんどうせいしかんつぼ)なるものが出土したのは明治8年のこと。それは口径20センチ、胴径41・8センチ、高台径26センチ、重さ2168キログラムの壺で、今も宮内庁三の丸尚蔵館(しょうぞうかん)に収蔵されている。

「遺跡」の文字に惹かれて二人でそこに向かった。目印となる一本の木があり、遺跡は田んぼより数十センチほど高くなった台状の土地であった。夕暮である。木の向こうに目をやると、オレンジ色の夕空に、畝傍山(うねびやま)のシルエットが美しかった。

(うち)で採れたお米と野菜です。ごゆっくり」

 夕食は心づくしの和食である。女将の人柄が伝わるような献立であった。その和室の隣の部屋に、大きな書棚を見つけた。書籍はすべて飛鳥にまつわるものばかり。私はご主人に聞いてみた。

「明日は甘樫丘に行くつもりですが、この辺りにお勧めの所があったら教えてください」

「ありますよ。このすぐ近くにある向原寺(こうげんじ)はとても古いお寺で、そこは飛鳥最古の豊浦宮(とゆらのみや)跡に建てられたものです。ご本尊は数奇な運命を辿った仏様で、その救出には私の父も一役買ったようです」

 飛鳥には「最古」というものがいくつもある。なにしろ最古の都なのだから。

「向原寺のあと、甘樫丘に登ってここに帰って来てください。ご希望の所まで、(うち)の車で送りますよ」

 ここのご夫妻はどこまで優しいのだろう。お言葉に甘えることにした。

 

 推古(すいこ)天皇は592年、豊浦宮で即位した。その宮は()()氏一族とゆかりの深い、甘樫丘の麓にあり、この時推古天皇を支えて、政治面で活躍したのが聖徳太子である。天皇退位のあと、宮は飛鳥の岡本に移され、豊浦宮跡には尼寺の(とよ)(うら)(でら)が建てられた。それは、金堂、講堂、塔などのある壮大な伽藍であった。その後、この地に建てられたのが向原寺である。

 

「北村さんから聞きました。お参りさせてください」

 そうお願いすると、ご住職の奥さまはすぐに本堂へと案内してくれた。拝観料はいらないと言われる。ご本尊は40センチ足らずの観音菩薩であった。ここで、民宿の北村さんの言っていた、仏様の〝数奇な運命〟を聞くことができた。

 それは、1772年、お寺の南にある難波(なんば)池から、仏様のお顔部分だけが見つかり、その後、胴の部分が作られて向原寺に安置された。しかし、1974年には盗難に遭って行方不明になってしまった。そこから36年後の2010年、何とオークションのカタログに掲載されていることが分かって、向原寺が買い戻したのである。この時、ご住職に同行して東京に行ったのが、北村さんのお父さんだったのだ。檀家総代だったのであろう。

 専門家の鑑定により、仏様のお顔部分は飛鳥時代のものと判明した。やわらかな笑みを(たた)えた慈悲深いお顔立ちで、お願いすれば誰でもお参りできるようだ。

 最後に案内されたところが圧巻であった。奥様はこのように説明された。

「ここは豊浦宮の跡です。日本で一番古い宮殿の跡です」

 それは境内の一か所に、四角く掘られた発掘跡で、敷石が並び、隅には柱の跡も見られる。発掘の一部がしっかり保存されているのだ。1400年前の最古の宮殿跡。一瞬、時が止まったように感じた。友人は? と見ると、彼女も体を固くして発掘跡を見つめている。

 発掘調査は昭和34年であった。この敷石は周囲に広く広がっていることも確認されたが、向原寺周囲には多くの建造物があり、発掘には限界があって全容はまだ分からないようである。

 

向原寺の歴史は非常に興味深く、私達の急なお願いにも関わらず詳しく説明してくださった奥様に感謝して、お寺を後にした。北村さんとの約束の時間が迫っているので、甘樫丘に登るのをやめて宿に戻ると、北村さんは本当に石舞台まで車で送ってくださった。しかし、石舞台はその日、団体客が非常に多くて石室の中に入ることはできず、次に向かったキトラ古墳も来館者が多いため、ゆっくり見学を楽しむことができなかった。キトラ古墳は年に何回か特別展を開催するので、また改めて足を運ぶことにしよう。

 飛鳥はまだまだ、謎に満ちている。明日香(あすか)村は世界遺産登録申請に向けて準備を進めているようだが、ニュースで問題になっているオーバーツーリズムの心配があり、飛鳥ファンとしては非常に複雑な心境である。 

 

一泊二日の旅を終えて、帰宅後スマホの画像を見て驚いた。〈これは何?〉と思うものが写っているのである。向原寺の豊浦宮跡の画像のみ、斜め上から射す光が幾筋にもなって写りこんでいる。朝の太陽光線とは角度が異なるようだ。

 次に飛鳥へ行くときはこの画像を持参して、あの日お留守だったご住職の見解を聞いてみようと思う。

 

 

老いの不意打ち

                                          令和5年10月掲載

                               岩崎 秀泉

 

老いは人に不意打ちを食らわせると聞いたことがあった。最も記憶力、瞬発力の衰えは徐々に減退傾向にあったが、なだらかな坂で下っていくくらいに思っていた。

ところが昨年の11月16日、AM9時過ぎ、自転車で刺し子教室に通う途中、少し下り坂になっている交差点に勢いつけて入ったところで転倒した。

自転車は小学生の頃から乗っているので、どこに行くにも自転車を利用し過信していた。かなりの痛みが伴い転んだまま起き上がれない。尋常ではないとすぐに察した。直ぐにあちこちから人々が集まってきてくださり、「救急車を呼びましょう」といってくださる人、私を起こそうとしてくださる人、ちらばった荷物を集めてくださる人、自転車を起こしてくださる人等、親切な方の集団のようになった。有難い事である。が、私は右肩、腕に異常を感じ、どこを触られても痛くて触わられるのがこわかった。腕を持ち上げ起こそうとしてくださる人が多い中、私の痛みを察して、

「腕を触らないで」と前に進み出て腰を持ち上げて、上手に起こしてくださった方がいた。思わず、「看護師さんですか」と口に出た。「元、看護師です」とのこと。地獄で仏に会ったくらい嬉しかった。

その方が、

「前が整形外科ですからそこに行きましょう。転ぶところを私が一部始終見ていたから説明します」と言ってくださり、真ん前の整形外科に上手に運んでくださった。そして状況を説明してくださり優先的に診断してもらえた。さすが元プロと感心した。右肩と腕の二か所骨折、2か月の診断。肩から三角巾をかけ、その上をコルセットで固定された。

転倒した自転車を整形外科の駐輪場に運んでくださった若い男性、散らかった荷物を片付けてくださった方等、色々な人にお世話になった。が私は病院に運びこまれるやいなや、レントゲン、処置等を受けたので、どの方にもろくにお礼が言えていない。見ず知らずの方なのに皆さん真剣に対応してくださった。この場を借りてお礼を申し上げたい。

処置後、タクシーで家に帰ったものの痛みは半端ではない。生まれて初めての骨折。服の脱ぎ着をはじめ自分では何もできない。近くに住む娘が朝夕、勤めの行き帰りに手伝いに来てくれた。が、ちょうどこの時期、娘は新しい仕事の立ち上げを任され、多忙を極めていた。帰宅してからもリモートで会議・研修する娘を見て、

〈甘えてばかりはおれない。このままでは娘が倒れてしまう〉と心を切替え、出来ないながらも自分で取り組むよう方向転換した。痛み止め、炎症留めを飲んでも夜、ベッドでは痛くて眠れず、ソファーで座ったまま眠る日が続き、自分のしたこととはいえ何時まで続くのかと、ふさぎ込む日が続いた。

また、自分の言動をふりかえって、反省点を見つけると共に、数年前に脊髄3か所を骨折し、そのため、尿の神経を圧迫し尿漏れの原因となったにもかかわらず、誰にも言わず一人で乗り越えた兄を思い出した。さぞかし痛くて不安だったと思う。よく乗り越えたものと改めて感心し、知らなかったとは言え、なんの手伝いも出来ず申し訳なさが湧き出てきた。振り返ると入院を嫌がる兄のために1年3か月広島までの遠距離介護に通っていた時期と、私の骨折が重なっていたら私の心痛は、いかばかりであったかと察した。私が骨折する前に神様は兄を嚥下障害から肺炎、また酸素不足等でやむなく入院させられた。

私が骨折しても治療に専念出来るように神様が慈悲をおかけしてくださったのでは、と思えてきた。タイミングが合いすぎる。また、転んだところが整形外科の真ん前、お世話くださった方が元看護師(女性)、条件が整いすぎている。不思議な世界を見たような気がした。

友達に4回骨折したという自称骨折の女王がいる。

「日にち薬よ、必ず治るから」と教えられ、マイナス思考でふさぎ込んでいた私の気持ちも少し楽になった。

骨折して感じたことは、肩から三角巾をして、その上にコルセットをして歩いていると、見知らぬ人から毎日のように声をかけられる。

「どうされたのですか?」

その後はご自分の体験談をいろいろ話してくださる。心が和むひとときだ。また、知らない人がいろいろなところで手を貸してくださる。スーパーの袋詰め、落としたものはサァーと拾ってくださり、自然な形で手を貸してくださる。心で感謝しながら、日本もまだ捨てたものではないと思え、私も元気になったら御返ししたいという気持ちになった。

毎月レントゲンを撮り、骨の付き具合を確認しながら様子を見、2か月が過ぎたころ、

「骨は出来てきてる。リハビリに入りましょう」

との事で、週に2回通うことになった。右手はまだ上がらず、痛みも伴い思うように動かず、何をするにも右手は頼りない。年齢もあり簡単には元に戻らない。人間の体はいかに精密に出来ているのか、改めてわかった気もした。固定していたため、固まっている筋肉をリハビリでほぐしながら運動もしましょうと理学療法士さんからの説明があった。

そういう中で「源泉のかけ流し」が回復には効果がある話を聞いた。調べてみると「源泉のかけ流し」とは言葉の通り源泉である温泉水が、かけ流しの状態で循環機器などにより、ろ過されていないもので、源泉の成分を損なわず本来の泉質による効果適応性を直接感じ取れるもの。効能は疲労回復、筋肉痛、冷え性、胃腸病、運動麻痺、関節のこわばり、くじき、リュウマチ、腰痛、高血圧、切り傷、打ち身、関節痛となっている。

早速、娘婿が調べて車で宝塚の「源泉のかけ流し」に連れていってくれた。そこまでの期待感を持って臨んだわけではなかったが、実際ゆっくり温泉につかり家に帰った夕方から体が軽くなり痛みも薄れてることに気づいた。これって?〉と思い、その状況が2日間続いた。温泉の効能が読み取れた気がした。その後、また筋肉は固くなり痛みも伴ったが、「源泉のかけ流し」を続ければ体にいいのが身をもってわかった。

骨折などの怪我、腰痛、五十肩などを含む整形外科的な疾患は「運動器リハビリテーション」で機能改善を図るが、その期限は診断を受けた日から150日だそうだ。後、1か月リハビリは続く。先生曰く、

「骨はついてるし、痛みさえ我慢すれば日常生活は出来るはずだ。」

「そのとおりですが、その痛みが……」と言いたいところだが、誰がしたのでもなく、言っていくところはない。徐々に回復し闇から抜け出しつつあることは確かだ。

年齢を重ねて転ぶと骨折しやすいのもよく分かった。

 

「濡れ落ち葉 乾いて自力で燃え上がれ」ではないが、今の世の中、何歳になっても望めば学んだり、何度でもスタートラインに立てることに感謝しつつ、つらい出来事もちょっと俯瞰して眺めて笑いに変え、もう一度新しい人生を生き直すくらいの気概を持とうと考えを新たにした。